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しばらくブログ更新してなかったのでご心配おかけしたみたいで申し訳ありません。
生きてますよ。
特段元気ではないけど普通に元気だと思います。
ご安心を!
もう今日で6月も終わり。
このブログの空白の間、結構色々ありまして、またその気になったら少しずつ紹介するかも。
キーワードは次の3つ。
・浄化槽用ブロワーポンプの故障にまつわる一件。
・太君の個展。
・桑名ツアー。
ではまた!
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しばらくブログ更新してなかったのでご心配おかけしたみたいで申し訳ありません。
生きてますよ。
特段元気ではないけど普通に元気だと思います。
ご安心を!
もう今日で6月も終わり。
このブログの空白の間、結構色々ありまして、またその気になったら少しずつ紹介するかも。
キーワードは次の3つ。
・浄化槽用ブロワーポンプの故障にまつわる一件。
・太君の個展。
・桑名ツアー。
ではまた!
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新潮社の『波』2025年6月号の新連載のタイトルが『 九十歳、それがどうした』。
作者は下重暁子(シモジュウアキコ)89歳。作家、評論家であり元NHKアナウンサーで名古屋放送局にも居たらしい。
アナウンサー時代の顔はぼくも見覚えがある気もする。
とにかく、連載タイトルがまるで佐野洋子のようにぼくには思えた。
腹の据わった女性の考えは示唆にとんで面白いし、ためになる。
本当に歳で束ねられることってよくあると思う。
でもそれは他者にだけでなく、自分にも向けられる言葉でもあると思う。
歳でもって自分をたばねてる人の方が多いのではと見てとるのはぼくだけじゃないと思いたいのだけど。
以下抜粋。
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・・・新川和江さん。1929年生まれの詩人で、私がまだNHKにいた頃、仕事でお目にかかったことがある。
「新川和江です。お元気? この間、私の詩を本でとりあげてくださってありがとう。なつかしかった! 今は施設に入っているけど、足が不自由なだけで元気よ」
・・・「私ね、もうすぐ95歳になるのよ。だからといって歳で私を束ねないで!」
そう、新川さんの詩で私が愛してやまないのが「わたしを束ねないで」。
その一部を引用しよう。
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
何ものにも縛られずくくられず、自由にはばたく詩人の声は力強く、95歳という年齢などに束ねられない。
それから間もなく、2024年8月に訃報を聞くことになった。・・・
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もちろん年齢だけでなく、ぼくらは性別とか国とか民族とか障がいとか、とかく様々なものでくくられ束ねられるわけで、それに真っ向からNO!と言ってくれる先輩がいるって心強いし大切な気づきを与えられることが多い。
常識のみにとらわれず柔軟な思考のできる人は素敵だなぁとぼくは思うのです。
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通販サイトでラベルプリンターを探していて出くわしたカメラ。
32GBのマイクロSDと感熱紙ロール3本付いて3,980円だった。
カメラはポラロイドを模したような形状。
しかも感熱紙はポロライドのように下口から出てくる。
感熱紙だからカラーでなくモノクロ写真風。
これはいいかも!と思って購入してみた。
それが5月30日だった。
翌日夕方届き、そこから試し撮り。
とにかく面白い。
しかもランニングコストが安い!
ぼくはこのカメラと同時に専用感熱紙ロール10本セットを購入したがそれも1,200円を切ってたから1本約120円。
ロール1本で50枚は撮れるから1枚3円以下。
すでにこのブログにもこのカメラで撮った写真を何枚も使っているから写り具合はわかると思う。
印刷濃度は3段階で選べるし、写真の解像度というかファイルサイズも選べる。
ただし、フォトフレームはちびっこ向けで使えない。
動画も撮れるけどこれも必要ないかも。
画像は32GBマイクロSDに保存されるので同じ写真を何枚も感熱紙プリントできる。
レシートとか、ファックスに使われていた感熱紙って次第に色褪せていつかは消えていく。
その儚さもぼくはいいなぁと思ってる。
これはキッズカメラにカテゴライズされてるけど、どっこい大人も楽しめる、否、大人こそ楽しめるカメラだと思う。
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19日間の入院を終え、午前11時頃母は退院した。
左大腿骨転子部骨折。
施設内での単独転倒によるものだった。
リハビリ病院へは転院せず、そのまま施設に戻る選択をした。
その選択しかなかったとぼくは確信している。
母は施設の車で車椅子ごと一足先に施設に戻って行った。
ぼくは入院費を精算したのち同じく施設に向かった。
ぼくが施設に到着するとすぐに副施設長で苦情窓口責任者も兼任されている方が出迎えてくれて相談室で話し合いをすることになった。
まずは依頼しておいた事故報告書の開示とその説明をしていただき、その後転倒した際の見守りカメラ動画をノートパソコンで見せてくれた。
ぼくが想像した通り、母は介助者が付き添わないでシルバーカーを操作歩行している時に入り口付近でシルバーカーをぶつけて単独転倒していた。介護員の男性が転倒する途中に必死で母の転倒を防ごうとしたけれど、あと一歩のところで転倒してしまっていた。残念だけれど起きてしまったものは仕方ないと改めて思った。
対応していただいた副施設長兼苦情責任者の彼はとても温厚で信頼できる方のようにぼくには思えた。転倒時の映像も動画で撮らせてもらった。
それもあって、ぼくの方も率直かつ冷静にぼくが考えるところの今回の事故原因と問題点を彼にお話しすることができたと思う。
約2時間近くに及ぶ話し合いになった。
途中シルバーカーでの歩行訓練を担当した理学療法士の男性も加わり説明をしてもらった。その彼にも同じようにぼくが考えるところのシルバーカーでの歩行訓練の問題点をお話しした。それに対して彼も気づかなかった点があったと率直に認め謝罪してくれた。
この時点で、どこの病院、どこの施設、どこの組織にも共通したキーワードがあるとぼくは思った。
それは一つには『情報共有の難しさ』であり、『組織内の自浄作用の低さ』だった。
それに加え、少しきつい言い方になるけれど、施設について言うなら『ほったらかし』になる利用者の存在だと思う。
先のブログでも書いたように「声無き者は哀れ也」だ。
これも言葉が悪いかもしれないけれど、肉親を人質に取られてるようなものなので、苦情を言いたくても飲み込んでしまう人も少なくないと思う。
だけど「声無き者」にかわって「声を発する」のが子としてのぼくの役割だと思い、今回お話しする機会を設けてもらったのだった。
詳しいことはこのブログでは書けないが、施設が抱える構造的問題としてこうした事故は起こるべくして起こるとぼくは思った。
現場の介護職の人たちの仕事量を考えれば、事故が起こらない方が不思議だとも言える。
だから一概に責任を押し付けることは、(もちろん起こしてはいけない事故ではあるけれど)一方的すぎるとぼくには思えるからだ。
施設や病院、物流、ゴミ処理等に関わる職業の人たち、いわゆるエッセンシャルワーカーに対する適正給与を税金でもって国や県や地方行政が助成し補償するとともに人員配置を増やすべきだと思うからだ。(ここでは財源をどうするかどうかは省く。)
ぼくらが安心して日常生活(例えば介護を任せて仕事に励めるとか)を営めるのはこのような施設や介護従事者がいるからこそだ。
それを棚上げして、泊まりの夜勤で数十人を一人で面倒みざるを得ない人に全ての責任を負わせることは間違っていると思うからだ。
これは社会全体の問題であり、問題として見ようとしない、他人事のようにしているぼくらの問題でもあると思う。
93歳。
自分ではもう歩けなくなった母が再び転倒することはほとんど考えられない。
今後おそれているのは、腰痛圧迫骨折だ。
すでに二度圧迫骨折をして入退院を繰り返している。
今度圧迫骨折したら文字通り寝たきりになってしまう。
ベッドから車椅子へ、そして車椅子からベッドへの乗せ替え時、本来なら複数人で介助してもらいたいが、介護職員の数から言ってそれは難しいことがわかった。一人介助での乗せ替えで、車椅子やベッドに腰を下ろす時、少しの衝撃で(座らせる直前で介助者の力が尽きてドスンと降ろしてしまったりしたら)腰椎圧迫骨折が起こりうるからだ。
今日は初めて母の介助担当者(それも本来は入所時に紹介されるべきものだったが)を紹介してもらえ、担当者の彼にこの乗せ替え時の留意点をお願いしておけたのはよかった。
今回の話し合いの具体的な成果が出るかどうかはわからないけれど、とりあえずぼくが言っておきたいことは全て言えたと思う。
同種の事故が他の入居者の方に起きない一助になればいいのだけど。
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数年ぶりのことだ。
今まで4回くらい行ったことのある場所。
行ったことのない人にはおすすめのスポットだった。
6月第1週の水道週間の日曜日だけ一般公開される馬ヶ城浄水場。
お店の開店準備をいつもより早く済ませ自転車で行くことにした。
今年は駐車場もなく、公共交通機関か自転車、バイク、あるいは徒歩で行くしかないとの情報。
ぼくは迷わず自転車にした。
お店から10分ちょっとで到着。
コロナ禍以後一度行ったのだけど、その時は無粋なロープが張り巡らされ、立ち入り禁止だらけになった。
もちろん地元高校茶道部のお茶の席もなくなった。
コロナ禍が完全に無くなったわけではないから一時的には仕方ないかとその時は思った。
今年は駐車場もないため入場者も減ると予想したことと、コロナ禍も過去のこととなり以前のような(無粋なロープと立ち入り禁止の標識もない)一般公開日になるかもしれないと淡い期待を抱いたのも行く気になった理由だ。
結果。。。
淡い期待は見事に吹き飛び、ぼくが最後に行った数年前よりひどくなっていた。
明治村にあるような板張りの事務所(その建物内の右の部屋は展示室だった)さえ、手前の橋の前にロープが張られ立ち入り禁止になっていたのだ!
コロナ禍以前の公開日は立ち入り禁止区域などあったのか覚えてないくらい自由に見学できた。
浄水プールの奥の百葉箱のあるところだって自由に行けて写真を撮ったりしたものだ。
ぼくにはこのような立ち入り禁止だらけにする公務員気質が透けて見える。
ぼく自身も教育公務員だったからその理屈は想像に難くない。
にしても、今更の何故の立ち入り禁止区域なのだろう。
譲れない理由があるならその理由を文面にして公開すればいい。
これは昔の馬鹿げた校則に似てる。
今ではその校則すら人権侵害等の観点から現代の常識に照らし合わし改定されたり削除されたりしてるわけだ。
「禁止だから禁止!」では通用しない。
せっかくの景観も無粋なロープが邪魔をする。
写真を撮ろうにもロープを避ければ画一的な画角になって面白くない。
年に一度きりなんだよな。
昔の映画のようにことごとくヘアにボカシを入れるような無粋がここでは今なお大手をふるってまかり通っている。
残念なことだ。
そういえば、今年はこの街でトリエンナーレが開催されるという・・・。
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右大腿骨転子部骨折で5月15日に緊急入院、緊急手術した93歳の母の退院日が決まった。入院中の病院のソーシャルワーカーから電話連絡を受けた。
来週の火曜日6月3日。
19日間の入院期間と言うことになる。
リハビリ病院への転院はせず、そのまま施設の方に戻ることになる。
病院でのリハビリは痛がってつかまり立ちも満足にできない状態ではあるけれど、痛みも随分緩和されてきたような気がする。
こんな状態なので施設での生活は不安点も多々あるので、施設側にお願いできることははっきりとお願いしておくつもりだ。
入院当初認知症がかなり進行したように思えたけれど、少しずつ会話も増え、ぼくのことも認識してくれてるようなので少しホットした。
まだまだ母の人生は続いていくし、続いていってほしい。
*写真はシーツ交換の間、母と6Fデイルームから市内を眺める。車椅子に座っている時に痛みがないのも幸い。
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久しぶりに安城のタカさんを訪問。
Instagramによると2月の末から自宅の隣にあるお店の改装工事を始めたことになるから約3か月かけて小さなカフェを完成させた。以前の客席は北向きで南側に面する道路に背を向けることになっていた。今回の改装で客席は西側に向くので南側からの光が良い具合に店内に入り小ささも重なって落ち着く。引き戸のガラスは3段になっていて一番上は透明ガラスだけれど、二段目、三段目はぼくの好きなモールガラスで外からの視線も気にならない。
ぼくは元来広いスペースよりも狭いスペースを好むのでなおさらだ。
視覚マジックかもしれないけれど、視線の抜けがいいので以前よりもずっと広く見えた。
グレイの厨房は客席よりも広く、調理するスペースがしっかり確保されている。抑制された照明も効果的だった。
このカフェはタカさんの娘さんが施主。
きっとすぐに評判のお店になることだろう。
今日は娘さんのお店が開店する前の間借り。
タカさんが自慢の手焙煎で焼いた珈琲豆で珈琲をいれ、ホットサンドを添えてくれた。
珈琲は深煎り。スッキリした苦味で、冷めてからも美味しくいただけた。ぼくも持ってるこの網カゴ回転式の焙煎機でここまでうまく焙煎するのは並大抵ではない。タカさんのこだわりの証だ。
ホットサンドも焦げ目が狐色で見た目も綺麗。肉入りでボリューミーで美味しかった。
タカさんはエプロンをしてカウンターの向こうに立っていた。
すっかりカフェのマスターだった。
ご馳走様でした!
*タカさんにもらった釘箱は帰ってからタワシで洗ったあと、金ブラシで木の表面を少し磨いておいた。やれた感じがとても気に入っている。これをぼくのお店のどこに使うか考えるも楽しい。ありがたいこと。
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そのうち、「あれ?そういえば踵のアキレス腱の痛みがないなぁ。」
なんてことにならないかと淡い期待を抱いているのだけど、全然そういうことは無くて、相変わらず鈍痛が続いている。
もう1年くらいになるのかも。
でも、いつも痛いわけでなく、じっとしていれば痛くないときもあるし、じっとしていてもどーんと鈍い痛みがあるときもある。
逆に痛くて歩けないってことは一度もない。
夜横になって眠るときはほとんど痛くないのは助かる。
まだ整形外科で処方された湿布をしてるのだけど、その効果もあるのかないのかわからない。
地元の猿投山にこのアキレス腱炎をかかえたまま登れるかなぁと最近ときどき考える。
ちょっと試してみたい気もする。
途中で引き返すことも考慮に入れながらね。
履物をどうするか・・・も問題だね。
踵の骨の出っ張りが靴で擦れたら痛みだすかもしれないからなぁ。
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母は認知症もあって今自分の置かれている状態もわからないでいる。
そうに違いないとぼくは思う。
夕方母を見舞うとすっかり眠りに落ちている。
ベッドの足もとにあるテーブルには手付かずの夕飯がトレーの上に並んでいる。
蓋を開けると流動食とお粥とお茶だ。
大部屋に移って、他の患者さんたちはカーテンの向こうでそれぞれに歯を磨いたり寝るための準備をしているようだ。
ぼくは母に声をかけ、母を眠りから覚ます。
ベッドのコントローラーで上半身を起こす。
眠りから覚めたばかりの母はぼくが誰なのかわからないようだった。
「お母さん、夕食きてるから食べよう。まずお茶飲もうか。お母さん、湯呑みは自分でつかんで飲んでみようか。」
母はゆっくりと湯呑みを口元に持っていき、そうっとお茶を口の中に流し込む。
「あー、おいしい。」と母が言う。そうして二口、三口とお茶をおいしいと言って飲んだ。
「そっか。よかったね。じゃ、今日は具のない茶碗蒸しがあるからまずはそれから食べてみようか。」
寒天のように少し固まった茶碗蒸しをスプーンに掬って母の口元に持っていく。
母は少し口を開け、ぼくはその口の中にスプーンの先端を半分ほど入れる。
母はそれを吸うようにして口の中に収める。
入れ歯を外した母の顔は他人のお婆ちゃんのように見えた。
しばらくくちゃくちゃと口を動かし嚥下する。
「お母さん、上手上手!」
母はまた「おいしいなぁ」と言う。
ぼくからしたらどれもとても美味しそうに見えないけれど、母は病院食に文句を言うどころか
おいしい、おいしいと言って食べるのだ。
今夜もぼくが介助して夕食の4分の3くらいを食べた。
ぼくは急に悲しくなって、涙がこぼれそうになった。
母に本当においしいものを食べさせてあげたい。
もしもぼくが今日来なかったら、母はこの夕食を食べることができたのだろうか。
自分の方から職員に何かをお願いすることはもう母の能力ではできない。
頭皮がどれだけ痒くても、喉がどれだけ乾いたとしても、母はもう声なき者なのだ。
あとは、気遣いのできる誰かが母の様子を見て対処してくれるのを、それはおそらくとてつもなく可能性の低いことだろうけど、その善意をただじっと待つ以外にないのだ。
声なき者は哀れ也。。。
声なき者は哀れ也。。。
本来は、声なき者にこそ、ぼくらの想像力、共感力を発揮するべきだとぼくは強く思う。
帰り際、もう一度母に尋ねてみた。
「お母さん、それじゃもう帰るけど、ぼくが誰かわかる?」
「・・・じゅん・・・」と消え入りそうな声だった。
それが今日の救いだった。
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物置の片付けをしようと扉を開けるたびに途方に暮れるだけで、なかなか手が付けられなかった。
先日のVOUSHO映画会の時に何気なくそのことをO君に話したら水曜日に手伝ってくれることになった。
昨日この地方は最高気温31℃ほどで真夏日。
今日も高温が予想されるので昨日日程変更を提案したけれど、予定通り実施することになった。
熱中症に気をつけないといけない。
午前10時過ぎから作業を始めたが、30程作業して30分休憩。また30分作業して30分休憩。
水分補給をしっかりした。
結局午前中は1時間程の作業で終わった。
正午になったのでお昼ご飯を食べに中華料理屋へ。
そして午後1時すぎから作業再開。
40分程作業して20分休憩。
30分作業して物置の荷物はほとんど外に出し終わった。
それから物置の中を箒と掃除機で掃除した。
10年ぶりに物置の中はほぼ空っぽになりスッキリ!
埃とアシナガバチの巣と死骸もきれいさっぱり片付けた。
下駄箱や書棚等粗大ゴミを軽トラに積んで3時ごろO君と一緒に晴丘のゴミ処理場に向かった。
ゴミの総量は80kgだったので処理費用1,600円だった。
処理場から戻ってすぐに外に出した荷物を物置に戻す作業を始めた。
雨が降りそうだったので少し急いで作業しなければならなかった。
全ての作業が終わったのは5時半くらいだった。
冷蔵庫とテレビと柱や鴨居の端材は外に出した。
にも関わらずまた物置の中は荷物でいっぱいになってしまった。
それでも大きな前進だ。
ここからまた少しずつ整理していけばいいのだから。
O君に7時間分のお礼をして今日の作業は無事終わった。
O君に手伝ってもらわなければできなかったと思う。
O君に感謝!
ぼくは4時半ごろにエネルギーが完全に消耗し久しぶりにヘトヘトになってしまった。
*雨に降られるといけないのでとりあえず荷物を入れただけなのでここから整理を少しずつすることになる。まだまだ作業は続くけど大きな一歩だね。
■□
「 ジュンらしい」と言われることがある。
「ぼくらしさ」とは一体何だろうって後になって思う。
ぼくは気が小さくて、臆病だし、ちょっとしたことで腹がたつし、気難しくて、面倒臭がりで、こだわりが強くて、頑固で、器が小さい卑屈な男だ。
それ以外にもマイナス面をあげたらキリがない。
プラス面はほんの少ししかないし・・・自分ではおこがましくて言えないな。
そういう自分が嫌いなので、歳を重ねるにつれ怒りの矛先は自分に向けらることが多い。
「ジュン君らしい・・・」と言われるたびに、ぼくの人物像をどう捉えてるんだろう?って不安になる。
もしかしてとんでもなく美化してるんじゃないか・・・とか。
実際のぼくとかけ離れてるんじゃないか・・・とか。
自分以外の他の人の思うぼくの人物像に、無理やり自分を当てはめるようなことはず〜っと昔に放棄した。
ぼくはこうでしかありませんってありのままの自分に近い言動をすることで開き直ってしまった。
それで随分と気が楽になったと思う。
100人いたら100人に好かれる必要はないもの。
数人理解してくれる人がいたらそれでいい。
一人もいなかったとしても、期待してのことではないから仕方ない。
要は自分に嘘をつかないでいられたらいいだけ。
これからは「ジュンらしい」って言われたら、「そうかぁ。ぼくらしいって具体的にはどう言う感じ?」って訊いてみよう。
きっと即座に否定ってことになりそうだけどね。
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中学・高校の同級生で、40数年会ってなかった友人のMichiyukiが来店してくれた。
彼は何年も前からぼくが死ぬ前にもう一度再会したいと思う人物の一人だった。
ぼくは彼に手をさしのべ、まずは固い握手を交わした。
こんな日を待ってたんだ。
お客さんは他に一人しかいなかったので、ぼくは彼と心行くまで語り合うことができた。
彼の仕事人生は、彼独自の理念に基づき、国内にとどまることなく大陸にまで及び、確固とした足跡や国を超えた厚い人望を築いてきた。偏見や差別もなく真っ直ぐな彼の物事の捉え方は青臭い理想論だと批判されたらしいけれど、理想を追求して何が悪いとぼくは今のこの歳になっても思っている。そのため経営者としての彼の考えに肯くところも多かった。
正直言って彼の仕事人生はそのスケールの大きさにおいても、また築き上げた実績においてもぼくの携わった職業の次元とは違いすぎて、ただただ圧倒されるだけだった。
そんな彼が時折見せる笑顔のチャーミングなこと!
屈託のない本気の笑顔はあの頃の『Michiyuki』そのままだった。彼の根っこの部分がちっとも変わってないことがぼくはとても嬉しかった。
この再会の立役者、同窓会で彼にぼくのショップカードを渡してくれた、ふ〜ちゃんにも感謝してる。
所属意識が希薄だし、こういう集まりが苦手だから出席しないぼくだけど、いつも気を配ってくれて本当に感謝以外の言葉が見つからない。
ありがとう。
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価格改定しました。
世の中値上げだらけ。
理由等説明した文章を書いたのだけれど、言い訳にしかならないし、そもそもぼくが説明するまでもなく、皆さんわかってると思い直し、その文章は破棄したのだった。
販売してるコーヒー豆の値上げはぼくも仕方ないと思うけれど、10年前にお店をはじめてからずっと一杯500円をキープしてきたコーヒー価格を上げることに決めた時、敗北感のようなものを強く感じた。
価格改定のためにメニュー等も書き直した。
この作業がやりたくなくて、今回の価格改定が5ヶ月ほど遅れた。
値上げ本当に申し訳ありません。
【追記】
豆売りのインディアとVOUSHOブレンドも復活しました。
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午前9時頃に携帯に着信。
母が入所している施設で早朝母が転倒し意識を数分消失したので病院へ連れて行くとのこと。
ぼくも準備をして病院へ向かった。
施設の看護師さんがCT撮影室の廊下にいた。
母は少しリクライニングさせた車椅子に乗って、眠っているように見えた。
そこで看護師さんから引き継ぎ説明を受け、彼女は施設に戻っていった。
すでにレントゲン撮影は終えていた。
整形と脳外科の両方の指示で結局下肢のCTと頭のCT、血液検査、心電図、点滴に母を連れて行った。
整形の診断で、『右大腿骨転子部骨折』と判明。
脳外科の診断では特に異常はなかった。
母はそのまま緊急入院しボルトで骨をつなぐ手術をすることになった。
午後3時15分頃に手術のために母は車椅子からストレッチャーに移され手術室に向かった。
この時点で既に5時間ほど過ぎていた。
手術中は母の病室で3時間ほど待つことになった。
その間、看護師さんから渡された入院のための書類を書いたりした。
手術を終えた母は目を瞑っていて、まるで全身麻酔からまだ醒め切ってないような感じだった。実際は下半身麻酔で意識はあるはずだった。
母に声がけし「痛い?」と訊くと少し薄目を開けて「痛くない」と蚊の鳴くような声で答えた。
「手術は無事終わったよ。よくがんばったね。」と言ったけれど、またすぐ目を瞑って眠りに落ちたようだった。
急速に筋力が衰えていて、ベッドや椅子から独力で立ち上がることができなくなっていたのでシルバーカーで移動時の転倒を心配していたが、おそれていた通りになってしまった。
順調に行けば2週間ほどで退院予定だけれど、高齢なので予想外に入院が伸びるかもしれないと思ったりもしてる。
母と言葉を交わしていると自分が今どういう状態になっているのか、転倒し、骨折し、手術し、入院してるんだということもわかってないようだった。
せめて母が痛みを我慢したり痛みで苦しんだりしないよう願わずにはいられなかった。
■□
久しぶりの映画会。
今夜はロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の『父、帰る』(2003年)。
観終わってからの感想等が興味深かった。
ぼくには全く宗教的な視点が欠如していてとても勉強になった。
同じ映画を観た後で意見交換できる機会はなかなかない。
だからとても楽しい。
今回も良い時間だった。
忙しい中、時間をやりくりして集ってくれた人たちに感謝。
■□
先日Yさんの知り合いの溶接屋さんを紹介してもらい、昨日連絡をとってみた。
そして今日、溶接工場へ軽トラに荷物を積んで持って行く段取りになった。
急展開。
持って行くのは全部で3つ。
・天球儀(台座のネジから天球部分が外れてしまっていた)
・鉄のハイチェアー(脚部の溶接はずれが1箇所)
・傘立て(溶接はずれ1箇所)
何年も前からずっと気になっていたんだ。
ぼくはアーク溶接キットを持ってるけれど、うまくやれたためしがなくて(100Vだから力不足なのとぼくの不器用さのため。鉄のハイチェアーは以前やってみたけれどくっつくには至らなかった)、ここはプロにお願いしようとずっと思っていた。
今日溶接してくれた職人さん(社長さんは現場に行っていて不在だった)も言ってたけれど、町工場の溶接屋を今でもやっているところは稀だそうだ。このようにちょっとした個人的な小物をどこで溶接してもらえばいいのかわからないのも当たり前なのかもしれない。そんな時代になってしまってる。
1時間ほどで溶接は終わった。
溶接屋さんの工場の中は油と鉄と溶接のすえた独特のにおいがして、昭和の頃にタイムスリップした感じだった。
ぼくがちびっこの頃、家のすぐ近くに鉄工場があったのでぼくの原風景に近かった。
だから懐かしさみたいなものを感じるのだった。
ずっと気になっていたものがやっと解決できて嬉しかった。
■□
昨日ぼくのお店に久しぶりに来店してくれた山中くんにちょっとした衝撃で蓋が開いてしまうPenFを診てもらった。
そして今日、GW休み中の彼のお店にそのPenFを持って行くことになり、おしゃべりしなが軍艦部を開けてみてくれたら、昨日の見立て通り蓋の留め具にテンションをかけるバネが外れて転がっていたのだった。
ぼくはさすがだなぁととても感心した。
トリネコ時代から換算すると16年も経ってるそうで、プロとしてのカメラ修理の腕前や知識が一層確かな物になっていたからだった。
本当にあっという間の16年だ。
フラッシュとシンクロさせる線も断線していたのでついでにハンダ付けまでしてくれて、目の前であっという間に再組み立てが完了した。
蓋はしっかり閉まり、外す際の抵抗もしっかりとしていた。
もう撮影途中で蓋が開いてしまってフィルムが感光する心配もなくなった。期限切れのフィルムがまだたくさん残ってるのでフィルムカメラ撮影再スタートかな。
彼はそれぞれの機種の構造のみならず関連する機器の知識も豊富で何を訊いても即座に答えてくれる。そしてもし彼にわからないことがあっても決してわかったふりをしないのも信頼できるところだ。
帰りは山中くんの家のそばまで軽トラで送った。もう10年以上行ってなかったのに迷わず送れて自分でもびっくりした。
先日お客さんからいただいたPentax SLの修理(ミラーアップ)もお願いしたのでまたその修理が終わったら連絡くれることに。
GW最終日は雨だったけれどとても楽しい時間を過ごせて幸せだった。
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ぼくはタブーが好きじゃない。
タブーって何だろう。
誰がどうこうしろ!って言わなくても何となく、うん、まさに何となく、それは口にしちゃいけないとか、話題にあげちゃいけないと自己規制すること。ポリネシアのtapuから来てると言う説もあるらしい。
それって、殺された安倍元首相在任中、官僚やマスコミがこぞってやった『忖度』と底通するものだとぼくは思う。その『忖度』は国の中枢部だけでなく下々のぼくの居た教育の世界でも同じ構図がはびこっていた。能力の高さではなく、異を唱えないイエスマンか確信犯的太鼓持ちしか出世しないと言う馬鹿げて滑稽な世界だった。おそらくどこの業界、どこの組織でも同じようなものだろうと想像する。
ぼくが作家の桐山襲や深沢七郎、それに漫画家の根本敬、元日本兵奥崎謙三に興味を持ったのは、この『タブー』に絡んでのことだった。
いじめ、差別、戦争が無くならないのと同様にタブーや忖度も無くならないのだろうか。
せめて自分だけでもタブーを当たり前にしたり、忖度しないように気をつけないと。
その第一歩、『愛想笑い』しない人になろうと心がけている。
*写真はドゥシャン・カーライが描いた表紙絵の本。ドイツ語版。
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ドゥシャン・カーライと人形作家AGUちゃんのコレクター展を雨の中見に行くことにした。
地下鉄一社駅近くの絵本専門店とカフェの合体したお店で、30年近く前に末盛交差点から少し南に行ったところにお店を構えてらした時に一度行って以来の老舗の絵本専門店だ。
AGUちゃんの新作はなくて、全てコレクターの収蔵品だが、昔見てとても気に入った作品と再会できたのは嬉しかった。(写真下)
また、コレクターが販売するカーライ関係の書籍も並べられていて、ぼくは4冊購入することになった。(そのうち一冊は取り置きしてもらうことになった)
ドゥシャン・カーライの作品が使われた本2冊とアルヴィン・ブルノフスキーの作品が使われた本2冊だ。
最初見てすぐにコレ!と手にしたのがブルノフスキーの本だった。カーライよりもブルノフスキーの作品の方がぼくは好きだとこの時はっきり悟った。ぼくはきっとブルノフスキーの変態チックで緻密なこだわりが好きなんだと思う。(Google翻訳だとスロバキア語のタイトルは『禁断の愛』だった!)
店主の方の丁寧な説明も受け、じっくりと作品を見ることができたし、ぼくが居た時は他にお客さんもいなくてとてもラッキーだった。
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ネトフリで配信されてる『ブラック・ミラー』シリーズがとても好き。英国製だ。
最新のシーズン7は粒ぞろい。
その中でも特にここであげたいのがシーズン4の『宇宙船カリスター号』とその続編シーズン7の『宇宙船カリスター号:インフィニティの中へ』だ。
主人公のナネット・コールを好きすぎて、ほぼ毎日このどちらかのエピソードを見ていると言っても過言ではない。
疲れている時とかなんとなく寂しい時とか、気持ちが沈みがちな時に見ると明らかに心がいっとき浮上するのがわかる。
米国の宇宙テレビドラマをおちょくりつつも、現代のオンラインゲームの先をいく没入型体験ゲームとクローンテクノロジーの倫理的危険性を合体させてストーリーを構成しているのもさすがだ。
シーズン7でゲーム開発会社カリスター社のCEOであるウォルトンがインフィニティ・ゲーム内の自分自身のクローンと初対面する時の『よー、ナマステ〜』と言って登場するシーンはいつ見てもその脱力感に笑える。
『ブラック・ミラー』とは別に『After Life/アフターライフ』もシーズン3までで18エピソードあるのだけど既に3まわり目だ。
ぼくはこのドラマの主人公トニーに感情移入できないタイプだけれど、彼の孤独感と喪失感は理解共感できる気がする。
彼と接する人々は個性的で、どちらかと言えば負け組(ドラマ内では負け犬と言われている)に属するのだけれど、そんな人たちや愛犬と接することで彼はギリギリのところで自死することなく、徐々に立ち直っていく。
その中心には乳がんで亡くなった妻への絶対的な愛がどーんと位置を占めているのだけど。。。
気難しく皮肉屋の彼が同僚や街人と触れ合い、彼らとのちょっとしたセリフの中にこそぼくはかえって涙した。
いずれにせよ、ぼくは英国ドラマが自分の好みに合うみたいだ。
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最初に断っておくと、常識レベルのこと、つまり、マナーとして当然のことをあげつらっているのではないのでよろしくお願いします。
もう10数年も前のことになるけれど、朗読と演奏のコラボしたイベントに出かけた。前売り券を購入して行ったのだけど、そこそこ広い和室にぎっしりの観客だった。ぼくは体操座りをしたのだけど、一旦座ってしまうと身動きできないくらいすし詰め状態だった。トイレに立とうものなら、多くの人に立ち上がってもらい進まなければならないから、我慢するしかないなと諦めた。
夜のイベントで開場時間から開演までの30分ほどですでにぼくは疲れてしまった。
それに加え、スタッフの人が携帯の電源を忘れずに切ることと開演後は絶対に喋らないことを何度も繰り返し注意した。
ぼくは比較的後方に位置していて全体を見渡せたが後ろに座ってる数列の人たちの背後には唐紙障子があった。
暗転となって朗読が始まって少したつと背後からヒソヒソと話し声が聞こえてきた。それはスタッフの人たちの話し声だった。まさか襖越しに自分たちの声が聞こえてるとは思っていなかったのだろう。
それからの1時間ほど、暑いわ、お尻は痛いわ、時々漏れ聞こえる話し声のために朗読に集中できないわで散々だった。帰りにアンケート用紙にこれらのことを書いて出した。
演じる側ができる限り観客を増やしたいと思うのは、収益をあげるためにはわかるのだが、観客に我慢と緊張を強いるほど詰め込んで良しとする考え、ぼくはそう言うのが嫌いだ。自分が客の立場になって考えられないのだろうかと思うし、そうした視点の欠如したものが場や形態は違ってもぼくらの周りに少なくないように思う。なんでも結果オーライ、ノリ重視のものが好きではない。
観客に私語を慎むように言うなら、スタッフの方はそれ以上に自ら注意して当たり前だし、たとえそれが連絡事項であっても話し声が上演中に漏れてるなど、杜撰すぎると思った。
そんなことがあってから、ぼくは狭い箱でのライブや公演に全くと言っていいほど足を運ばなくなった。映画館も空調の効きが悪かったり、座席も狭くてきついところは余程のことがない限りいかなくなったし、仮に一人で入ったとしても私語禁止のカフェも御免だ。
立ち見なんてぼくには無縁の世界となったし、そんな無縁世界がぼくの中に随分と広がってしまった。
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はっきり物を言われるので誤解されることもあるかと思う。
好き嫌いはあるだろう。
でもぼくはいいなぁと思う。
それは裏表を感じられないことと、自分のしたいことに真っ直ぐだからだ。
ぼくはいつも彼女と話していると、何歳になっても彼女のように前向きでいられたらなぁと思う。
見習いたいところのあるぼくの人生の先輩だ。
今日は現在展示中の作品展を見せてもらったあと、彼女が絵を描いたりしている小屋もゆっくりと見せてもらった。
恥ずかしながらぼくの銅版画と紙版画も飾られていた。
あ、ここにいたんだ!ってふと思ったりした。
ありがたいこと。
8本の株立ちの欅を中心とした緑あふれる中庭をのぞみながら彼女は絵を描いてるわけだ。
いい時間だろうなぁ。
絵を描いてるところのIさんをiPhoneで撮らしてもらった。
絵を描いてる時のIさんはいつもとちょっと違って見えたなぁ。
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友人と某ファミレスでランチをした。
平日だけど多くのお客さんで混んでいた。
もうあのコロナ禍が現実だったのかと疑うような喧騒だった。
最近友人が新車で購入した英国の電気自動車を見せてもらった。
まるでSFに出てくるようなインパネ周りだった。
ぼくはおそらくこういう高級車や新車を一度も購入することなく終わるのだと実感した。
でもそれが羨ましいというわけではなく、人それぞれ何に重きを置くかだから。決して負け惜しみではなくね。
その後本当に久しぶりに山中くんのお店に行った。
彼が言うように店内は時間が止まったようにぼくが最後に行った時のままだった。
とても落ち着く。
1時間ちょっとお邪魔した。
他に常連さんもいらして、相変わらず山中くんは年長者からもかわいがられていた。それはまさに彼の人徳の成せる技だった。
3年ぶりくらいだったけど、彼と話せて楽しかった。
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相変わらず右の踵の上の方が痛い。
この痛みは執念深い。
10段階で言えば、3〜4くらい。
痛くて動けないということは全くないし、ずっと痛いわけでもない。
そんなわけで痛み始めてから病院に半年以上行かなかった。
先週水曜日、お客さんに教えてもらった整形外科に行って診てもらった。
セカンドオピニオン。
1月に最初に診てもらった整形外科で「踵骨棘(しょうこっきょう)」と言われた。
今回も踵骨棘はあるが痛みの元はアキレス腱が炎症を起こしているもので踵骨棘自体が痛みを発しているわけではないとの説明。診断名としては「アキレス腱炎」だった。
それではどう対処すればいいか。
先の医院では湿布+リハビリ(これがダメなら)→注射(これもダメなら)→手術と言われた。
今回の医師によると踵骨棘があっても全くどうもない人もいる。手術すると腱を痛め筋力が低下するから手術はほとんど行わない。痛み止めの注射も筋線維を痛めるので勧めないとのこと。それよりストレッチを行ったり、姿勢を正したり、履物にインソールを入れたりするといいと言う。
結局、この炎症がおさまらないことには痛みは消えないわけで、果たしてこのロキソプロフェンの湿布薬を2ヶ月貼って痛みは治るのだろうか。日常生活をしながらだとね。
この整形の医師は説明もしっかりしてくれて、説得力もあった。先の医師と違い両方の踵を診てくれた。それは当たり前だと思うけど。とにかく良い病院を紹介してもらいありがたかった。
少し遠いのでリハビリには通わないけれど、湿布がなくなったらまた行くつもりでいる。
にしても医師によって見立てがかなり違うものだと改めて思った。