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清々しい五月晴れ・・・のような日は少なかった気がする。
寒かったり、一気に暑くなったりを繰り返した。
暦はズレ幅を増しているのではないかとぼくは思う。4月6日、7日あたりの入学式や始業式の日には既に桜は葉桜になってて久しい。
梅雨入りも早まり、期間も長期化。その度に線状降水帯の停滞等によって記録的豪雨で洪水や土砂崩れを繰り返す。
現代版ノアの方舟なのかもしれない。
これからそんな季節に突入するんだよね。
明日から6月。
今年も折り返し点かぁ。
5月もありがとう。また来月もよろしくね。
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清々しい五月晴れ・・・のような日は少なかった気がする。
寒かったり、一気に暑くなったりを繰り返した。
暦はズレ幅を増しているのではないかとぼくは思う。4月6日、7日あたりの入学式や始業式の日には既に桜は葉桜になってて久しい。
梅雨入りも早まり、期間も長期化。その度に線状降水帯の停滞等によって記録的豪雨で洪水や土砂崩れを繰り返す。
現代版ノアの方舟なのかもしれない。
これからそんな季節に突入するんだよね。
明日から6月。
今年も折り返し点かぁ。
5月もありがとう。また来月もよろしくね。
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あれこれやってみたいことがあるのだけど、その一つがコラージュ。
今日はお客さんに岡上淑子さんの「はるかな旅」という作品集を見せてもらったことにも刺激を受けた。
それで早速手持ちのタイムマガジンから人物等を切り抜きしてみた。
切り抜いただけで、コラージュのための素材作りにすぎないけれど、適当に組み合わせてみるだけでも面白い。
これをコーネルの箱みたいな箱を作ってコラージュしてみたいなぁ。
そんなことをしてたら眠れなくなって、ほら!もう夜が明けてきてしまった~。
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歳のせいもあるけど、とにかく最近のぼくは涙もろくていけません。
NHKの土曜ドラマ『17才の帝国』は一昨日の土曜で3回めが放映されたところ。
地方の海に面した小さな街を特別行政区として、人工知能と次世代の若者で政治を行うと言う国家プロジェクト。
人工知能が選んだ特別区の総理大臣は17才の高校2年生の男子だった。
就任していきなり、市議会を廃止。
旧態依然とした利権と癒着とは別次元の根回しも忖度もない政治を行っていく。
このドラマを見て、毎回ぼくは涙している。
簡単に言ってしまえば、ぼくにとって17才の総理大臣の真木亜欄がピュアでまぶしいからだ。
ぼくが失ってしまったもの、忘れてしまったものを突き付けられた気がするからだ。
ぼくは歳を重ねるごとに、反発しながらも、世間の常識やら組織のルールにがんじがらめになり、黒くて大きな渦にのみこまれてしまったからだ。
主人公の純粋な精神がそこなわれるのを、次世代の若い閣僚だけでなく、人口知能がバックアップし、旧勢力の反撃に耐え、徐々に真の意味の変革をしていくところにココロを強く動かされてしまうからだろう。
どんなものであれ、人間だけの組織や権力は必ず腐敗するとぼくは思う。
そこに人工知能が入ることにより、決定プロセスがガラス張りになり、腐敗を食い止めることができるのかもしれないと、ちょっと安易だけれど、そんな希望を抱きたくなった。
まだこれからこのドラマはどういう結末になるかわからないけれど、ぼくにとっては目が離せないドラマであることは確かだ。
主人公の神尾楓珠もいいが、星野源もいい。
音楽もとてもいい。
どういうわけか昔NHKで放映され夢中で見たアニメ「電脳コイル」を思い出した。
NHKという巨大組織の国内政治報道姿勢にはぼく自身批判的立場だけれど、ドラマやドキュメンタリーやラジオ番組に関してはすぐれた作品が少なくない。
ドラマで言えば、最近のものを思い出すだけでも「透明なゆりかご」、「ここは今から倫理です」、「恋せぬふたり」等がある。
また福祉番組の「バリバラ」も画期的な攻めの姿勢の番組で他の追随を許さない。
話がそれてしまったけれど、機会があったら「17才の帝国」見てください。
因みにぼくはNHKプラスでパソコン画面で何度も見ています。
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ココロのゆとりと言うものがぼくには希薄だ。
だからちょっとしたことでココロは翻弄される。
ココロが翻弄されると感情がほとばしる。
きっとそうに違いない。
それでぼくはいろいろな人たちを傷つけてきたことだろう。
ぼくはストレスが胃ではなく、腸に来るタイプ。
気にかかることが起きると即座にお腹をこわすのだ。
ココロのゆとり、ココロのノリシロの広さは人により千差万別。
だから、万人向けの対応で対処できなくて当たり前だ。ココロのノリシロをひろげるためには、やることを減らしダウンサイズするしかない。
たとえそれが非効率的であってもね。
そんなことを日曜日の営業が始まった時考えていた。
今日もお店のドアを開けて来てくれたお客さんたちに感謝。
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ちょっと気を緩めると1週間が過ぎていた。
早いなぁ。
5月らしくない5月。
暑かったり、寒かったり。
季節が乱れてる。
一体ぼくは何をしてたのかなぁ。
紙版画やってたか。
区別のつかない金太郎飴のような日々を過ごしてるのかな。
それはやだな。
それが嫌なのも前職をやめる理由の一つだったからなぁ。
一日一日を大切にしたいな。
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先日の紙版画のワークショップ。
得るものが多かった。
その手応え、感覚を忘れないうちに作品作りをしてみた。
エッチングと違い腐食させなくていいので、作業はさくさく進む。
4枚刷って、原版はリタイア・・・かな。
原版はそれ自体が作品ぽくていい。
表現の幅が少しひろくなった気がした。
紙版画はドライポイントと似てる。
最終的には、銅版画に応用できるといいなぁ。
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相模原から太くんがやって来た。
丸3年ぶりの再会のようだ。
嘘みたいだ。
今でもVOUSHOの隣のアパートに居て、窯業専攻科に通ってる・・・そんな気がしてしまう。
専攻科は2年間だから、修了してアパートを退去し、相模原に帰ってから、専攻科に在籍していた年月よりも長く会ってないなんて嘘のようだ。
今日は営業終了後、2階のスペースで夕飯を食べながら一緒に日本酒を呑んだ。
楽しすぎる時間だった。
会っていない時間がすぐに埋まっていったよ。
遠方より来てくれて、本当にありがとね!
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午前10時から2時間の紙版画ワークショップに東山のON READINGさんに向かった。
しかも、講師はぼくの好きな版画家ダダジュンさんと奥さんのさかたきよこさん。
初めてダダさんに会えるし、直に版画のことも訊けるのでとても楽しみにしていたのだ。
結果は大満足!
銅版画のことも目からウロコのこともあったし、何を訊いても真摯にこたえてくれてとても勉強になった。
10人の受講者のうち、ぼくを含め含め知り合いが4名でその点は気楽だった。ちなみに男性はぼくだけ。
作家も多くいらしてて、作品が半端なくうまかった。主催のON READINGさんのお二人の作品もプロですか?!という出来栄え。
ぼくも必死で集中して作品作りしました。
心地よい疲れだけど、疲れました。
ビリヤードを2時間集中してやった時と同じ感じかなぁ。
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VOUSHOの営業は2時からにしてちょうどよかった。
営業後、2階のギャラリースペースをダダジュン仕様にしてみた。ぼくなりのね。
彼の作品集や彼が装画した本をまとめて並べたりね。ON READINGさんで買って帰ったポスターも貼ってみた。
タダジュンさんのセンスのほんのちょっとでもぼくのものになることを願ってね。
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タイトルにもあるように、明日5月8日(日)の営業開始時間は都合により午後2時からとしたのでお間違いなく。
と言っても、ネット情報を得ない人にはわからないので、2時前に来店したお客さんには本当に申し訳ない。
ところで、巷の黄金週間も一応明日で終わりなのかな。
人混みが嫌いで、列になって待つのも嫌い、高速道路で渋滞も嫌いなぼくは、こういう時期に県外に遠出する気はさらさらない。
ニュースで何10kmもの渋滞の映像を見るだけでストレスを感じてしまう。
そんなぼくだけど、今朝は早起きして開店準備した後、今日明日開催の『しなの工房めぐり』へ行ってきた。
昨年の秋にも行ったイベントだ。
ぼくはガラス作家の高山さんと空西さんが出店してる工房へ行った。
眞窯さんの工房は広々として気持ちいい。今日は天気が良すぎて暑いくらいだった。
ガラス作品も陶器も気に入ったものが買えてよかった。
営業前に一仕事終えたような感じで、いつもの2倍、1日が長く感じられた日だった。
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ぼくは正直言って、儀式的なことが得意じゃない。
だから、しきたりとか冠婚葬祭が苦手なダメ大人だ。
でも、まぁ仕方ない。
そんな大人がいたっていいと思う。
実は今日はぼくの父の三回忌の日だった。
あれからもう3年ともいえるし、まだ3年か・・・ともいえる。
ぼくにとっては生まれてから一番ハードな日々だった。
父が亡くなってから四十九日まででぼくは心身ともに疲弊した。
あんなに疲れたことは一度もなかったと言い切れる。
あの日々を思い出すだけで内臓が動き出すようなストレスを感じる。
何がそんなにストレスだったかと言えば・・・と言い出したら、それこそいろんな方面に差し障りが出るから言うのはやめておく。
ほんとにほんとに、やれやれだった。
実際その後、ぼくは初めて帯状疱疹を発症した。そして父が亡くなって8か月後に一度目の急性虫垂炎で入院したのだった(結局3度目の再発で腹腔鏡下手術で切除した)。
そんなぼくだけど、つまり、決まり事をそういうものとして執り行うことが苦手のぼくだけど、営業終了後、叔父のお通夜に行ったのだった。
ぼくは中途半端に真面目なところがある。それがぼくの情けないところだと思うのだけど、元来気が小さくて、すべてをはねのけるだけの胆力というか破天荒さを持ち合わせていないのだ。
ところがだった!
このお通夜的なのがとてもよかったのだった。
ぼくは感動すらしたのだった!
ぼくが嫌いなのはお金をこれでもかと言わんばかりにかけた、見栄っ張りな葬儀だ。
叔父のお通夜は、いわゆる「お通夜」ではなかった。時間を決めてお坊さんがお経をあげるものではなかったからだ。
おそらく故人とかかわりある人が三々五々来て手を合わせる・・・みたいなものだったのだ。
ぼくが葬儀場に到着したのは午後7時を少し過ぎたころだった。
葬儀会場には誰も居なくて、親族の控室に、叔母と息子、孫、友人たちがいらした。
ぼくはその中に入って、棺ぎの中の叔父さんに手を合わせ、あとは叔母とお茶とお寿司をつまみながら話をした。
その話の中で、明日の葬儀もお坊さんは来ないし、戒名もないし、お墓も作らないことを知った。叔母の息子の意向を叔母はそれでいいと本心から思っていることがよくわかった。
形式にこだわらない潔さにきっとぼくは感動したのだと思う。
ぼくは1時間以上叔母たちとおしゃべりした。
こういった席でぼくにはありえないことだった。
故人の偲び方は人それぞれだ。
当事者がどうするかを外野はとやかく言う必要はないし言ってはいけないと改めて思った。
控室に集っていた人たちが、故人ととても親しく、楽しそうに偲んでいるのが伝わってきた。
葬儀場の広さでも、参列者の多さでもなく、お坊さんの数や生花の多さでもなく、香典返しの品の値段でもなく、故人をしのぶ気持ちがその葬儀の質を決めるのだ。
父の三回忌の日に、父の弟のお通夜の在り方に感動するという偶然!
叔父は苦しむことなく息をひきとったこともよかった。
叔母がいつものように気さくに明るくふるまってくれていたこともありがたかった。
こんな葬儀ならぼくだって、積極的に行くのにな。
でもこれは例外的なんだよね。
例外かもしれないけれど、ぼくの中で一つの大きな基準となったのは確かだった。
叔父さん、叔母さん、喪主さん、良い機会をありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
合掌。
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季節が逆戻りしたような肌寒い五月朔日日曜日だった。
基本的にペシミスティックなぼくは欧州での戦闘が世界中を巻き込んだ戦争になるのではないかと危惧している。
どんどん退路の無い方向に突き進み、二度と開いてはならないとされていたパンドラの箱を再び開けてしまうことが無いとは言えない。
欧州とは程遠いとされているこの地でも、完全にミサイルの射程距離圏内であり、原発を狙うまでもなく首都や幹線の高速道路や鉄道を破壊されたら一気に物流が滞り、平和を謳歌することは不可能となる。
これはコロナ禍よりもずっと恐ろしいことだ。
ぼくらの平和は、ぼくらが思ってるよりもずっと脆弱な基盤の上に成り立っている。世界の平和があってはじめて成り立つものだからだ。
ウクライナの破壊されたビル群の映像が、ぼくの目の前にひろがるこの国の都会の街並みに二重写しになる。そしてぼくら個人は集団や全体の中に埋没し、個々の命の重さや価値は虫けら並みに軽く薄いものとなるのだろう。
とまぁ、こんな具合にぼくは悲観的に考えがちだからいけないね。
これから先、どんな事態が起こるか予想だにできないけれど、良い方向に急転してもらいたいね。
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ここでお知らせを!
来週日曜日(5月8日)は都合により営業開始時間が午後2時からとなりますのでよろしくお願いいたします!