2022年8月31日水曜日

【20220831:水】+++2022年8月が終わる+++

 


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夏の盛りは過ぎたね。

ツクツクボウシの鳴き声の切ないこと。

つい耳を傾けて聴きいってしまう。

残暑がときどき自己主張することはあるけれど、今度は秋に向けてまっしぐら。

赤とんぼがお店の前の空き地を飛んでる。


ただいまぼくは残暑休み中。

それなりに活動してるのだけど、あまり大きなことはしてない。

パソコンでできることや、ちょっとした模様替えだけ。

予定してたDIYは時間切れ。

そんなもんだろう。


LEDで輝度の高いプロジェクターがあるといいなぁ。もちろん安価で。

昼間でも映像が流せたら楽しいのになぁ。

ぼくのもってるおもちゃのようなプロジェクターは真っ暗にしないと映ってるかどうかわからないし、そもそもピントも合わせられないんだよなぁ。


秋の夜長、もうすぐだね。




2022年8月28日日曜日

【20220828:日】+++明日から残暑休みです+++


 

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実は今日でVOUSHOはオープンしてから丸7年が終わり、明日から8年目を迎える。

早いなぁ。本当に早い。

でも、この間、いろんなことがあった。

実にいろんなことが。

まだずっと続いてるコロナ禍もそうだけど。

それ以上に、教員をしてた頃のぼくと比べるとぼくの周りの人間関係の劇変はすごかった。

それと、これも大切なことだけど、休み明け前日に「明日からまた始まるか。やだなぁ。」とは全く思わなくなった。それまでは日曜日の夜「サザエさん」のテーマ曲を聞くと暗い気持ちになったものだ。夏休み最後の1週間なんて最悪の気分で憂鬱がウルトラ・スーパー・イクストリーム・マックスだったからなぁ。

そんなことが今は全くない。

ぼくのココロをたとえていうなら風のない湖面のように穏やかなんだ。

この7年間を振り返ってもね。

幸せなことだと思う。

他の人からしたら小さなことに思えるかもしれないけれど、ぼくにとってはとても大切でとても幸せなことなのだ。

これも、お客さんに恵まれたからだ。

それと多くの作家と知り合えたからだ。

心底感謝の気持ちでいっぱいだ。

いつもありがとう!


明日、8月29日(月)~9月2日(金)までVOUSHOは残暑休みとなる。

この機会に8年目のVOUSHOのこれからについてじっくり考えることができたらと思ってる。

8年目の最初の営業日は9月3日(土)。

8年目のVOUSHOもまた、どうかよろしくお願いします。

2022年8月25日木曜日

【20220825:木】+++10月にライブやるよ+++

 


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VOUSHOでライブやるのは実に5年ぶり!

今まで2度しかやってないんだ。

高蔵寺に以前あったcafe花音(ライブを行なっていた)の元橋さんの声かけで今回実現することになったのだ。

まだまだ先のことだと思ってたけれど、もう1か月先になってしまった。

今回も今まで同様アコースティックの弾き語りライブ。

東京を中心に音楽活動されてるオツベルさんという男性アーティスト。

山田庵巳さんのような吟遊詩人を思わす楽曲と歌声がVOUSHOを満たすことになると思う。

久々のお楽しみ。

昨日、オツベルさんがSNSにライブ予定をアップされたので、ぼくもそれに向けて準備を始めないとね。

日時等は以下のよう。

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10月8日(土)

午後7時開場 7時半開演

前売りのみ(当日無し)最大20名

料金2,000円+1ドリンク

駐車場は近くの市営駐車場(1時間無料。1時間毎100円)をご利用ください。

前売り券は9月3日(土)から店頭で販売します。

よろしくお願いいたします。


2022年8月24日水曜日

【20220824:水】+++VOUSHOのFacebookは閉じたよ+++

 


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もうずっと前から辞める、辞めたいと言ってきたFacebook。今日ついに辞めました!

と言ってもログはそのまま残してあるし、メッセンジャー機能はそのまま使えるし

今まで放置してたのと実態はほとんど変わらない。

Facebook自体を退会したわけではないからね。


それでも、新規書き込みをしないとか、

「友だち」申請(実は友だちでもないし、知り合いでもなかったりする人も多い)や

「いいね!のリクエスト」(ぼくはこの機能がかなり嫌い。どんなものかもわからないのに、いきなり「いいね!のリクエスト」されるのってどうよ?お店やイベントの実態もわけもわからないのに、そのリクエストに応じて「いいね!」をするなんて、ぼくにはとても無責任なことに思えたからね。個別にメッセージをくれて趣旨等を少しでも説明してくれたならこんなひねくれ者のぼくでもね、納得して「いいね」したかもしれないけどね。そんなことはぼくの記憶では一度もなかったし、なんでもかんでも安直にクリック一つで済ませる時代になってしまったのだな、きっと)

に対応しないと記したので、こころおきなく放置できるようになったわけだね。


今まで、Facebookとインスタグラムとツイッターの3つのSNSをお店用に使っていたけれど、ぼくには荷が重すぎた。このブログだってあるしね。

それを今回整理できたことは率直に言ってよかったと思う。

Facebookのような消極的放置をするのでなく、これからは残りのツールを積極的に活用したいものだ。。。けど。。。ね。

まぁ、がんばってみます。

やってみてダメだったらまたその時考えるということで。

*写真は全く関係ないよ。チャールズ・ブコウスキーがMachintosh IIsiで入力しようとしているところなんだって。IIsiも懐かしいけど、画面に写ってるワープロソフトのクラリスのロゴも懐かしいわ~。

2022年8月22日月曜日

【20220822:月】+++愚直のすすめ+++

 


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某SNSの投稿を読んでぼくは考えさせられた。

それは『はったり』をぼくはどう捉えるのかということ。

手元の電子版大辞林で意味を確認してみた。

『はったり』= わずかなことを大げさに言ったり,ありもしない物事をあるように見せたりして他人を圧倒しようとすること。また,そういう言動。

他に思いつた似たような言葉も調べてみた。

『粉飾』= うわべを飾ること。とりつくろって立派に見せること。

『嘘』= 事実を曲げてこしらえたこと。本当でないこと。偽り。

ぼくは、『はったり』は『嘘』の変種であり、『嘘』より軽微な罪に思われるが故に、時として処世術の一つとして推奨されたりもするのかと思った。

他人はどうあれ、ぼく個人に限って言えば、『はったり』をかます人はその人がどういう人柄であれ、また、『はったり』がどの程度のものであれ、『はったり』をかますことをありだと結論づける人を信頼することはできない。職場でもって何くわぬ顔で『はったり』をかます人を少ないながら見てきた経験も影響しているだろう。

もちろんぼくは『はったり』はかまさないし、人生の転換点となるような一大勝負時(仮にあったとしても)であっても、『はったり』でもって、あるいは『はったり』をきっかけとして、人生を好転させようとは決して思わない。

相手側に正直に自分の力量なり、経験なりを告げ、機会が与えられたならば最善の努力を尽くす覚悟を最大限の熱量をもって伝える道を選ぶ。
と言うか、それしかないと思う。

それを他人は「そんな馬鹿正直なことを言ってたら自己実現なんてしないよ。人生での成功なんて勝ち取れないよ。だれだってそれくらいの『はったり』はかましてるよ」と言うかもしれない。  

それでも敢えてぼくは愚直の道をすすめる。

世渡り上手な人たちとではなく、そんな愚直な人たちとぼくはともに歩いていきたいからだ。


2022年8月21日日曜日

【20220821:日】+++カレー屋さんで驚いたこと+++

 


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地下鉄塩釜口駅近くにインドカレー屋さんがある。

ぼくがまだ学校に勤めていた頃から時々カレーを食べに行っていたので、もう10数年前からの付き合いになる。店主は娘さんをインドから呼び寄せ、公立高校に入学させたいとのことで相談を受けたことがあった。どこで日本語を習ったらいいかとか、高校入試のための勉強をどこですればいいかとかだった。そんな相談はもちろんはじめてだったので、自分なりに調べて教えたのを覚えている。

とても賢い娘さんですぐに日本語をマスターし、翌年には地元の優秀な生徒が通う県立高校に入学したことまでは知っていた。

その後、店主とぼくとの共通の知人であるラーメン屋さんのイチさんが急逝されたり、少ないながら店主と個人的なかかわりもあったりした。

その後、ぼくは早期退職し、VOUSHO Coffee Factoryの準備期間を経て開業し今に至っている。

あっという間に10年の歳月が流れた。

土曜の夜、久しぶりにこのカレー屋さんに行った。

もちろんマスクをして店内に入り席に着いた。

店主が水をもってきてくれて『先生、お久しぶりです。』とぼくに挨拶した。

ぼくは驚いた。

『え?! 覚えてるの?!』とぼくは思わず彼に言った。

『もちろんです。あのときは先生にお世話になりました』

店主の彼とこうして直接話すのは少なく見積もっても10年になる。コロナ禍でマスクをしてるのに彼はぼくを覚えていて、ぼくだとわかっていたのだ。

料理をオーダーする前に店主からその後の娘さんのことをきいた。

高校入学後にも紆余曲折あって、今は大学院に通って電気系の勉強をしているそうだ。

ぼくはお客さんの顔を覚えるのが得意じゃないし、マスク着用のため一層判別が難しくなっているのに、彼は一瞬でぼくを認識したことに驚かざるをえなかった。

と同時に足が遠のいていたことを申し訳なく思った。

その日、彼に今のぼくのことを話すのはやめた。

もうぼくは先生じゃないこと、自家焙煎珈琲店をはじめ来月で8年目になることを。

次回以降タイミングがあったら話そうと思った。

それと彼には到底及ばないけれど、ぼくももっとお客さんに注意を払うようにしないといけないと。

自分のことを覚えてもらってたことがこんなに驚くべきことで嬉しいことだとは。気付かしてもらってありがたかった。

2022年8月20日土曜日

【20220820:土】+++コロナ見舞い+++

 


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8月は暑いからね、飲食店きびしいよね。

今日は蒸し暑くはあったけれど、それでも晩夏を感じさせるものも確かにあったね。

そのせいなのかどうかはわからないし、単なる偶然の気紛れによるものだろうけど、それなりにお客さんが来てくれて、忙しく働かせてもらってありがたかった。

写真家の竹谷さんも彼の作品の冊子とDMを持参して、インディアを飲みに来てくれた。

黒く日焼けしてた。登山してたそうだ。

個展は東京なので見にいくことはできないけれど、盛況となりますように!



コロナ感染が身近に迫りつつある感じだね。

ぼくはとにかく人混みに近づかないし、何度も言ってるように人混みが苦手、むしろ嫌いだからね。仕事でどうしても人混みの中に入らないければならない人たち、もうしばらく気を付けてなんとか乗り切ってくださいね。ぼくも乗り切りたいと思っています。

残暑見舞いじゃなくて、コロナ見舞いだね。





2022年8月15日月曜日

【20220815:月】+++夏季休業日のお知らせ+++

 


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今月8月、夏季休業日を設けることにしました。

2022年VOUSHO夏季休業日:8月29日(月)~9月2日(金)<5日間>

上記のように夏季休業させていただきますので、よろしくお願いします。

特に月曜、火曜に来店していただいているお客さんにおかれましては、お間違えの無いようお願いいたします。(水・木・金曜日はもともと定休日ですので)

コロナ感染者も相変わらず高止まり状態だし、ぼくは人混みが苦手なので、出かけるよりも日ごろなかなかできないお店の整備にまとまった時間を充てられたらいいなぁと思っています。


2022年8月14日日曜日

【20220814:日】+++NHKに対して思うこと+++

 


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NHKのニュース報道に対してぼくもとても不満だ。安倍元首相の頃からだ。こんなのに受信料を支払いたくないと本気で思う。それだからと言ってN党を支持もしないが。

以前も同様のことを書いたが、国内政治以外、外国のこと等になると途端に勇ましく正論をまくしたてる。日和ってるんだよな。それだからこそ、ぼくは逆にNHKの報道姿勢の使い分けがさもしい気がしてより罪深く感じる。

ところが、ドラマやドキュメンタリーになると優れたものが多い。

NHKとひとくくりに考えてしまうが、おそらく社員(?)もとんでもなく多く居て、組織の一員であってもニュース報道の在り方にぼくと同じように間違ってると思っている人も少なくないはずだ。。。

残念なことにNHK内部からのそうした意見はぼくには届いてこない。総体としてのNHKは権力に巻かれるまま、プロパガンダを垂れ流すよその国々と変わりない。

そのような時に、映画監督大島新(おおしまあらた)氏が昨日の朝日新聞に次のような記事を書いた。

全く同感!

ちょっとすっきりした。

そんなに長くないので、興味あったら読んでみてね。

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(テレビ時評)NHKの旧統一教会報道 大島新

 先週、ある識者の「まさか『ミヤネ屋』を録画して視聴する日が来るとは」というツイートを読んで笑ってしまうのと同時に、考え込んだ。旧統一教会関連報道では、読売テレビ(日テレ系)の「情報ライブ ミヤネ屋」をはじめ、TBSや日テレなど民放の報道や情報番組が気を吐いている。そんな中、まったくいただけないのがNHKだ。いったい、どんな力学が働いているのだろうか、この稿を書いている時点(9日)までは、旧統一教会と政治家との関係についての報道が、極端に少ない。

 最近強く感じるのは、同じNHKで放送されている、歴史や海外事情についての番組と、報道系の番組の落差だ。例えば先週のETV特集「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(6日)は、戦中の為政者の失政について新資料をひもときながら丹念に描いた。翌7日のNHKスペシャル「戦火の放送局~ウクライナ 記者たちの闘い~」では、戦時下の政治とメディアの関係に切り込んだ。

 「過去の日本」や「今の外国」については、権力の問題についてとことん追求し、見応えのある番組を放送しているのに、なぜ「今の日本」については、それができないのか。

 例えば7月31日に放送された特別番組「安倍元首相は何を残したか」には落胆させられた。ゲストは3人、御厨貴さん以外の2人は安倍晋三元首相のほぼ「功」しか語らなかった。出演者に罪はない。自分の考えを話しているのだから。しかし人選をしているのはNHKだ。それは一体誰に向けられているのか。ジャーナリズムの最も重要な役割は権力の監視である、などということは、釈迦に説法だと信じたいのだが。 (ドキュメンタリー監督)


2022年8月13日土曜日

【20220813:土】+++台風の影響なくてよかった~+++

 


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風台風ではなくて雨台風と言われていたけれど、雨もほとんど降ることなく台風8号は当地を去っていってくれた。

よかった~!

こんな日だから、さぞかし暇だろうとぼくは思っていた。

お客さんがいないとき、何かやるべきことを考えなきゃと思っていた。

珈琲豆が500g入る大き目の角底クラフト袋を新たに購入したので、そのスタンプ押しでもやろうかと考えていた。

それと今月に夏休みをとるかどうかも考えていた。とるならいつにするのがいいかとかね。

一応決めたけど、それはまた今度。

台風が来るかもしれない日だったにもかかわらず、ぼくの予想に反してお客さんが来てくれて本当にありがたかった。

明日も頑張ろう!っていう気になる。

今日もお客さんに助けられた日だった。

本当にありがとうございました。

*一人で来店し自分の本を持参して読んでくれたり、お店の本を選んで読んでくれるお客さん。そういうお客さんが長居できるお店にすること。それがぼくがお店をはじめたときから目指していたことの一つ。ぼくがしゃべって読書の邪魔をしちゃいけない。その見分けと話を切り上げるタイミングが実はむずかしいよね。


2022年8月11日木曜日

【20220811:木】+++半分素人でもいいじゃん+++

 


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日ごろ思ってることを文字化しておくね。

昨日今日具体的に何かあったわけではない。

念のため。


玄人と素人の境界なんてわからないといつも思ってる。

それに誰でも最初は素人なんだからね。

そのことを忘れてしまってる人って結構いる。

おいおい、自分が素人だった時のこと思い出せよって、偉そうに言うやつに対してむかつくこともある。最初からプロで生まれる人なんていないからね。

それと経験年数だって人それぞれに密度が違うとも思ってる。

経験年数は少なくても中身が濃くていろんなことを身に着けることができてる人だっている。年数が長いだけでスカスカの人もいるわけだ。


誤解を招くおそれがあるけど、敢えて言わせてもらえば、半分素人でもいいじゃんって思う。

いつまでも途上人でいい。

プロにしても、より高いレベルを求め続けてる人もいる。

結局、自分のことをどう思うかの違いだけ。


あと、自分のことを大きく見せようとする人も見苦しいね。

そんなことを思ったりしてます。


*台風8号が土曜日頃直撃しそうだね。やだなぁ。今年は台風が少ないと以前天気予報できいたけどこれからしばらく台風シーズンだものね。大きな被害がでないといいけど。

*棚は、生きざま・・・だって。大げさだけどうまいこと言う。棚好きなぼくとしては買わずにいられなかったなぁ。


2022年8月10日水曜日

【20220810:水】+++500枚のスタンプ押し+++

 


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定休日の水曜日。

珈琲豆用の角底クラフト袋にVOUSHO小僧のスタンプを押しながらパソコンで映画を見てた。

実際はそんなに器用な真似はできなくて、映画は見てたというより聞いてたと言った方がいいのだけどね。

合計500枚のクラフト袋にスタンプを押したよ。

失敗は2枚のみ。


スタンプ押しの作業が終わってから、『東京リベンジャーズ』という映画を見た。この映画もぼくはお金を出して映画館では見ないタイプのものだし、レンタルもしない映画だと思う。でもプライムビデオだから少し見てみようという気になって、つまらなかったら途中で見るのをやめようと思って見始めた。

ところがやめるどころかどんどん引き込まれ、最後の方では泣いてたから、自分でもあきれてしまった。

とても荒唐無稽なストーリーなのだけど、エンタテインメントとして楽しめる映画はそれはそれでいいものだね。喧嘩でけがはするけれど、ばたばた死んだりしないのもいいかも。

ぼくは名古屋出身の俳優山田裕貴くんが高校の倫理教師として主演したNHKドラマ『ここは今から倫理です』で注目するようになった。彼の目がとてもいい。その彼が不良グループのナンバー2、龍宮寺堅役で出演していたのもこの映画を楽しめた理由の一つだと思う。喧嘩が強くてしかも優しいという絵に描いたようないい男の役だった。

しかし、さっき「あきれた」と書いたように、ぼくの涙腺はもう緩みっぱなしでだだ漏れだ。

思い起こせば、中学生の時もテレビで松竹新喜劇を見てさえ、人情ネタだったりすると涙してたから加齢現象とばかりは言えなくて、元々涙もろい性質なんだろうね。

2022年8月9日火曜日

【20220809:火】+++ドラマや映画の中の死+++


 

な■□

今日のTwitterにも記したのだけど、ドラマや映画の中で、実に多くの人々が殺されたり死んでいったりする。

刀の一振りで斬り殺されたり、ピストルで撃ち殺されたり、首の骨を折られて死んだり、ナイフで喉を掻き切られたり・・・。

あるいは、悪種ウィルスに感染しカラダ中が爛れて死んだり、天変地異のような巨大台風や地震やツナミ等にのみ込まれて死んだりする。

ぼくはそれらを見るといつも、きっとぼくもその他多勢の一人として最初に死んでいく人なんだろうと思わずにはいられない。

どんな立場であれ、簡単に殺されたりする彼や彼女にだって、その背後にはそれぞれの生活があり、ささやかな人生があり、彼や彼女の幸福を願う友人や恋人や家族もいるはずだ。それぞれがかけがえのない存在であるはずなのに、ぼくらの想像力はすぐに枯渇し、一人一人の個としてではなく総数の一つとして、数として捉えるだけになってしまう。いとも簡単に麻痺してしまうんだよね。

ロシアの爆撃によってウクライナの民間人が亡くなっても、その犠牲者の中に子どもが含まれていようとも、数として捉え、表面的に気の毒だとして過ぎていってしまう。

そうでもしなきゃ、ぼくたち自身もつらくて生きていけないからだとも思う。でもそれはやはり言い訳に過ぎないよね。ほんの少しでも想像力を働かせ、犠牲者の恐怖と無念に思いを馳せ、自分に置き換えて考えることにこだわりたい。

プライムビデオで昨夜見た塚本晋也監督・主演の『野火』がぼくのこんな気分に影響を与えているんだろうね。

生と死は紙一重。運以外の何物でもない。

戦闘で死ぬというより、生き延びるために地面を泥まみれになって這いずり回りながらも、機銃掃射で一方的に無残な肉塊として吹き飛ばされていく兵士たち。まさに犬死そのものだ。人の命の重さの圧倒的な不平等を感じる。

そしてぼくはどうしても犬死していく側でしか自分のことを考えられない。

だからなのか、自分が所属する社会を向かわせたくないのだろう。人に殺されたり、人を殺す非常時にね。





2022年8月8日月曜日

【20220808:月】+++ぼくの備忘録+++

 


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短い対談の一部にもかかわらず、ぼくには納得することばかり。。。

何度読んでも「うん」、「うん」と肯いてしまいます。

それでぼくの備忘録として残しておきたくなったわけです。

もし時間あったら読んでみてくださいね。

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山崎雅弘氏×内田樹氏が対談。なぜこの国はこんなに人を粗末に扱うのだろうか?


コロナ・パンデミックで日本政府の後手後手の対応に怒りを覚えた人は多いだろう。失政により多数の死亡者を出しても、為政者が責任を取ることもなく、政策の見直しを迫られることもない。コロナに限らず、長時間労働に長引く低賃金、外国人技能実習生への冷酷な仕打ちなど、この国では、人の命があまりにも軽んじられていないか──? そうした思いから、戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏が『未完の敗戦』(集英社新書)を上梓。思想家の内田樹氏と対談を行った。

(本対談は、2022年7月9日に大阪・隆祥館書店にて行われた『未完の敗戦』刊行イベントの内容を一部抜粋して構成しています)

■ここまでおかしな国は他にない!?

山崎 日本の組織は、支配層や上層部の利益が全体の利益になると思わせて、都合のいいように人々を従わせていると思います。例えばSNSでも、職場環境や雇用の問題に関心が集まった時、自分は会社に雇われている側の一人なのに、なぜか経営者の目線で思考し語る人が少なくない。支配層の利益に沿うことが自分の利益にもなるんだと思い込まされている感じがするんですね。

原発にしても、エネルギー資源の乏しい日本で脱原発は無理などと言われますが、福島第一原発よりさらにひどい最悪の事故が起きれば、国民の生活そのものが成立しなくなる。また、外国からミサイルが飛んできた時、原子炉そのものは衝撃に耐えたとしても、外部電源が破壊されれば原発は爆発するという事実を、我々は福島の事故で学んだはずです。なのに、この国の支配層は原発が攻撃される可能性から目を背け、外国との戦争に備えて敵基地攻撃能力が必要だなどと言う。彼らの言うことを聞いていたら、我々はまた何回でも犠牲になっていくでしょう。

内田 自分にとって利益よりも損害の多い政策を支持するという、どう考えても不合理なふるまいをしている人が日本人の過半になっています。大阪はコロナで多数の死者を出しました。行政の不適切な感染症対策のせいで、死ななくてもいい人が死んだ。雇用環境も劣化している。教育に至っては日本最低レベルまで下がった。現に深刻な実害を被っているはずの大阪の市民たちが、にもかかわらず自分たちにリアルな損害を与え続けている当の政治勢力に圧倒的な支持を与えている。このタイプの倒錯が全国的な規模でも起きていると思います。

なぜ、このような不条理なことが起きるのか? それは、「自分にとって本当にたいせつなことは何なのか? 自分の心と体が本当に求めているものは何なのか?」を問うてはならないと日本人が子どもの頃からずっと教え込まれているからだと思います。「自分は何をしたいのか?」よりも「自分が何をすればほめてもらえるのか」の方を優先的に考えるように仕込まれている。自分の中から湧き上がる内発的な感情や思念を抑圧して、外部評価で高いスコアをつけられるように感じ、行動することが「正しい生き方だ」と教え込まれている。

学校では先生がまず問題を出して、子どもたちが答えを書いて、それに対して先生が採点をして、その評点に基づいて資源の傾斜配分が行われます。それがすべての教育活動で行われている。ですから、子どもたちは「問いに答えてよい点をもらうことが唯一の自己実現の方法だ」と信じている。

武道ではそういう構えのことを「後手に回る」と言います。「後手に回る」と必ず敗ける。それは禁忌なんです。ですから、武道ではいかにして「後手に回らないか」を教える。僕が道場で教えているのは、学校で骨身にしみこむまで教わった「査定されて高いスコアを取る」ことをめざすマインドを解除することなんです。

相手が問題を出して、自分がそれに答えて、採点されるのを待つというのは、典型的に権力的な関係です。ですから、相手に対していきなり優位に立とうと思う人間は、必ず相手に質問します。どんな質問でも構わない。相手が正解を知らないような問いであれば、何でもいい。「あなた、...を知ってますか?」と切り出して、いきなり「試験官と受験生」の関係に持ち込む。これにうっかり応じた瞬間に、そこには権力的に非対称な関係が出来上がる。だって、何を答えようと、相手が採点者で、自分はその採点を待つだけという非対称的な関係がもう出来上がっているから。どうして「私が出題し、お前が答える。その答を私が採点する」というような圧倒的に不平等な関係を無抵抗に受け入れてしまうのか。そういう関係を子どもの頃から刷り込まれているからですね。「後手に回る」ことに習熟しているから、あっさり「先手を取られて」しまう。

出題されて、答えて、採点されて、評点が高ければほめられ、低ければ罰される。それが社会的なフェアネスだと信じ切っている。「後手に回る」というのは「支配される」ということです。日本の学校教育は「支配される」マインドを子どもたちに刷り込んでいる。でも、生きる上で、最も大事なことは、他人に査定されて、点数をつけられることではなく、自分自身の生きる知恵と力を高めてゆくことなんです。言葉にしてみると簡単なことなんですけれども、これが現代日本では常識になっていない。

■なぜ日本の組織は「非効率」で「非倫理的」なのか?

山崎 本当にその通りだと思います。学校教育がその要因になっているという面もありますが、それはやはり社会の価値観の反映だと思います。外国に行くと、みんな本当にしたたかで、図太く自由に生きているなと感じます。自分の自由や権利が政府や雇用主に侵害されたと感じたら「自分の権利をちゃんと保障しろ」という主張を、誰もがやっている。それは、「わがまま」ではない。人間として、正当な主張なんです。それによって議論が生じることもありますが、それは相手と自分は対等であるという考えに基づくものです。

お店に行っても、客と店員、みんな対等です。でも日本では、なぜか上下の序列が作られる。客は自分が店員より偉いと思い込み、店員に横柄な態度を取る。上下関係があると、お互い尊重し合うという関係が生まれない。上の者は下の者をないがしろにしても許されると思ってしまう。こうした身近なところから少しずつ変えていかないと、人を大事にするという意識改革はできないのかなという気がします。

内田 この前、感染症内科が専門の岩田健太郎先生とお話ししたときに、似たような話を伺いました。日本社会においては、どこでも「どっちが上か」ということがまず配慮される、と。岩田先生はエボラ出血熱のとき、シエラレオネで医療チームのメンバーとして参加されたのですが、そこには「国境なき医師団」とかWHOとか、世界中からさまざまな組織が来ていて、その混成チームが指定された場所に集まって、さあ今から治療を始めるというとき、まず問われるのが「おまえは何できるんだ?」ということだそうです。自分は隔離病室を作れる、自分は発電機を操作できる、自分は自動車を直せる、自分は感染症の手順を知っている...、そういう自己申告に従ってジョブ型の集団を作って、治療が始まる。

ところが、日本で被災地や感染症の発生現場に行くと、最初に聞かれるのが「おまえは何者だ」ということなんだそうです。まず医師か看護師か薬剤師かという職能を聞かれ、次に出身大学を訊かれ、医局を訊かれ、卒後年数を訊かれる。何のためにそんなことを訊くのかというと、誰に対しては敬語を使い、誰に対してはため口をきき、誰に対しては偉そうにしてよいのか、その上下関係をまず確認するために(笑)。

岩田先生が、コロナウイルスによるクラスター感染が発生した「ダイヤモンド・プリンセス号」に入ったときも、誰も「あなたは何ができるのか」を問わなかった。何よりも優先されたのは「ここでは誰が一番偉いのか」ということで、それは橋本岳という当時の厚生労働副大臣だった。でも、この人は政治家ですから、感染症のことは何も知らない。でも、その人が感染爆発の現場で決定権を握っている。

感染症の専門家として岩田先生は「これじゃ駄目。やり方が間違っているから、やり直しなさい」と当然アドバイスするわけです。でも、日本ではこのふるまいは「専門家が非専門家に指示を出す」ふるまいではなく、「下の人間が上の人間に指示を出す」ふるまいと解釈される。これは日本では絶対の禁忌ですから、ただちに「出て行け」と言われる。

感染症の現場なんですから、感染症の専門家の指示が最優先的に聞かれるべきであることは明らかですけれども、日本の場合は「上位者の指示に従えないやつは出て行け」ということになる。これが日本の組織を徹底的に非効率で非倫理的なものにしていると思います。

■結果よりも「頑張っている」という印象が大事

山崎 そうですね。日本の組織では序列の上下のほかに、精神論も重視されます。先の戦時中の日本軍がまさにそうで、戦争初期のうちは、軍事的な合理性もある程度考慮して戦っていましたが、1942年6月にミッドウェー海戦が起き、日本海軍は主力空母4隻を失って、アメリカに勝てる望みを事実上失った。そして、同年の後半以降、どんどん戦況が悪化していきました。

そうした中で日本軍は、どうやってアメリカに勝つかということよりも、「いかに頑張っている姿勢を示すか」という精神論に判断基準がシフトしてった。その考え方が行き着いた究極の姿が「特攻」です。もう戦争でアメリカに勝てないとわかった時から、勝つために頑張って命まで捧げる姿勢をアピールすることが目的化した。

なぜそのような思考法が出てきたかというと、人の命を大事だと思わない精神文化に思考を支配されていたからだと思います。日本の場合、天皇という特別な存在があるので、国民の命の価値も、天皇と比べてどうかという話になってしまう。そのバランスが極端におかしくなったのが昭和の大日本帝国時代です。当時、国民は「臣民」と呼ばれていました。つまり「天皇のために尽くして奉仕するための存在」だと。天皇のために何をするかという基準でしか存在価値が評価されない。そういうエキセントリックな思考になってしまった。

明治時代や大正時代は、まだそこまで極端ではなかったんです。特に大正時代は、軍人であっても自分の権利は認められるはずだという認識はあった。それが昭和に入って全くなくなり、本当に人の命が使い捨てのように扱われた。

恐ろしいのは、悪意があってそんな精神文化になったというよりも、当時の価値観の中で、みんなお国のために役立つ、いいことをしているつもりだった。おかしいと思っていた人もいたはずですが、それを口に出しては言えない。言うと、「おまえは国や社会よりも自分のほうが大事なのか!」と罵られてしまうので、それが怖いから言えなかった。その同調圧力が極端に高かったのが昭和の大日本帝国時代で、敗戦を経て、それが無くなったと思っていました。でも、気がつくとこの10年ぐらいでそれが社会に戻ってきた感じがします。

内田 どうして日本人がこんなふうなゆがんだ人権意識を持つようになったのか、それについてはやはり歴史的経緯を見てゆく必要があると思います。幕末から明治初年にかけて、それまで存在した幕藩体制が解体されて、300の藩がなくなり、建前上は「一人の天皇が全国民を統治する」というかたちになりましたね。この「一君万民」という思想はそれまで300人の殿様がいて、武士や役人たちに人間扱いされてこなかった民衆にとっては衝撃的なものだった。
少し前まで「殿様」として雲の上にいた藩主も、威張り散らしていた武士も、百姓と同格の「万民」の一人だとされたわけですから。

「一君万民」の思想というのは、幕末から明治初年にかけての時期においては、それなりにデモクラティックな思想だったわけです。天皇をはるか高みに祭り上げることによって、それ以外のすべての日本人が同格のものになる。そういうやり方で幕末まで無権利状態に置かれた人々が、幻想的なしかたではあれ、人権を回復する道筋が示された。

世界史を見ればわかるように、民衆の政治的なエネルギーが爆発的に高揚するのは、国家意思と民衆の個別意思が中間的で媒介機構抜きで直接に繋がるという「幻想」が活性化したときです。日本の場合は、天皇が国家意思を人格的に表象しています。ですから、「中間的な媒介物である統治機構を抜かして民衆の個別意思と天皇の国家意思が無媒介に繋がる」という「幻想」がリアリティをもつと日本人は政治的にはげしく高揚する。

明治以降、大衆の政治的エネルギーを功利的に利用しようとした人たちが例外なく「天皇と国民個人が統治機構の媒介抜きで直接繋がる政体」という政治的幻想をレバレッジに用いたのはそのせいです。統帥権というのは、帝国の軍隊を統御しているのは政府ではなく、天皇であるという特異なものです。「上御一人」が単身で全軍を支配している。そういう話にまずはしておいて、その上で、帷幄上奏権(いあくじょうそうけん:君主制国家において軍部が軍事に関する事を君主に対して上奏する権利)を持つ陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長、教育総監らが「天皇の国家意思」なるものを代弁して、彼らの集団的な欲望を実現する。「軍部の暴走」なる事態が可能になったのは、天皇が軍のすべてを統帥しているという日本国民の可憐な夢想がそれを支えたからです。

「日本軍国主義」と言われますけれど、あれは語の本来の意味での「ミリタリズム」ではありません。「ミリタリズム」というのは「軍事優先」ということですから本来は徹底的に計量的で非情緒的な思考を要求するはずです。でも、日本の「軍国主義」はそういうものではなかった。それは「軍隊にあるものはすべて天皇の所有物であり、兵士たちは全員天皇から直接雇用されている」という妄想のことだった。

■人の命が軽んじられるきっかけとなった昭和の事件

山崎 以前、『「天皇機関説」事件』という本を書いたのですが、これは昭和の大日本帝国時代、日中戦争が始まる2年前の1935年に起きた事件です。「天皇機関説」というのは、天皇は一応、神の子孫ということにはなっているけれども、少なくとも近代国家としての大日本帝国の中では、憲法を超越する存在ではないよ、と。当時の憲法学者は、あくまで天皇は一つの国家の最高の機関、一機関として、憲法の枠内でのみいろいろな権能を行使できるという憲法解釈をしていたんですね。それが主流でした。

ところが、軍人や右翼団体が、「天皇は絶対的に崇高な存在なんだから、国の一つの機関などと言うのは不敬だ」と言って弾圧した。帝国議会まで巻き込む形の大騒動になって、最終的には当時の岡田啓介首相が、「天皇機関説」は認めないという声明(国体明徴声明)を出してしまった。それ以降、本当にたがが外れたかのように、天皇を神格化する政治運動や主張がどんどん高まっていきましたが、それで何が起きたかというと、一般国民の命の価値が下がっていったんです。天皇という存在が天に昇れば昇るほど、一般市民の命の値打ちは下がり、虫とか砂粒とか、そんなものでしかないという形になってしまった。そんな冷酷な認識に至る出発点が、僕はあの事件だったと思うんです。

今の日本で、天皇の名前を居丈高に持ち出す人間とはどんな人間かと見れば、例えば「あいちトリエンナーレ」のとき、展示物に乱暴な言いがかりをつけた名古屋市長の河村たかし氏や整形外科医の高須克弥氏などがいます。彼らは、慰安婦問題や南京虐殺などの大日本帝国時代の負の歴史を否認し、当時の日本軍の行いを肯定的に捉えている。つまり大日本帝国時代の精神を今も継承しているわけです。一方で、戦後の民主主義にはほとんど関心を示さない。

今の社会にある人権軽視の状況を一つ一つ見ていくと、結局、根っこはあの時代の精神に行き着くのではないかと思います。厳密には、もっと昔の封建時代にも遡りますが、少なくとも今の日本社会における人を粗末にする考え方の直接の出発点は、昭和の大日本帝国時代に形成された世界観だと思います。

■天皇制と立憲デモクラシーをいかに両立させるか

内田 そういうことが可能になるだけ天皇制には力があるということだと思います。天皇制という太古的な制度と立憲デモクラシーという近代的な制度が並立しているというような奇妙な国は世界で日本しかありません。だから、他国の民主制の成功事例を日本に適用しようとしてもどうしても無理がある。スウェーデンではこうやっている、デンマークではこうやっている、アメリカではこうだ、だから、日本でも...という議論は無理なんです。それらの国々には天皇制がないんですから。天皇制というアクターが政治的幻想のすみずみにまで入り込んでいて、その機能を熟知していないと政治過程を適切にコントロールできないなんていう国は日本にしかない。そうである以上、日本の政治をどうやって統御するかという仕事は僕たち日本人が自分の頭で考えて、自分の手で実行するしかない。誰も僕たちに代わって考えてくれないんですから。

僕は上皇陛下や天皇陛下に対しては個人的には非常に親しみを持っています。日本の国家としての道徳的なインテグリティー(誠実さ)を守っているのはこの方たちではないかとも思っています。僕のこの「尊皇」感情はかなり自然発生的なものです。僕のように久しく欧米の哲学思想に親しんできた人間になぜこのような不合理な感情が生まれてくるのか。そこからもう一回掘り下げて考える必要がある。

天皇制と立憲デモクラシーを両立させることはもちろん原理的には不可能です。でも、原理的には折り合いのつかないものを、実践的には折り合いをつかせるということはできる。なにしろ僕たちの手持ちの政治資源としてはこれしかないんですから。これをなんとか折り合わせて、権力が適切に制約され、市民の人権が十分に守られる仕組みをどうやって作り上げたらいいのか。誰もあらかじめ正解を知っているわけじゃない。自力で考えるしかない。

山崎 そこで重要なのは、自分たちには一人一人に独立した価値があるという事実をみんなが認識することだと思います。学校教育はもちろん、社会全体でそういう認識を持つ必要があります。国や省庁、企業、チームなどの集団に属して、そこに何かで貢献したから自分には価値があるのだ、ということでなく、自分たちはありのままで政府や集団から大事にされるべき存在なんだ、と。それが本物の「民主主義」です。

大日本帝国時代の精神を肯定する人間がよく主張するのが、「子どもが自己肯定感を持てる歴史教育の必要性」です。こういう大義名分で、南京虐殺や慰安婦問題を学校で教えることを禁じようとする。でも、これは完全に欺瞞です。何が欺瞞かというと、「おまえはこんな立派な日本という国の一人なんだ」という形で自尊心や自己肯定感を持たせようとしているところ。

一見もっともらしいですが、個人としてではなく、日本という国につながる者として自尊心を持たせようとしている。そして、国に奉仕や貢献をしない人間は存在を軽んじて、自尊心や自己肯定感を持てないようにする。この詐術にうっかりだまされてしまうと、行き着く先は昭和の大日本帝国時代のような、国や集団への献身奉仕という美談的な大義名分で人を極限まで粗末にした精神文化です。

こうした「情緒的な美談」にだまされないようにしないといけない。なんとなく「仕方ない」と思って我慢している自分の境遇が、実は「人権侵害の不当な扱い」ではないか、自分は「私たちを粗末に扱うな」と、国の支配層にもっと怒ってもいいのではないか、と気付くことが大事だと思います。

●山崎雅弘(やまざき・まさひろ)
1967年、大阪府生まれ。戦史・紛争史研究家。主な著書に、『日本会議 戦前回帰への情念』『「天皇機関説」事件』『歴史戦と思想戦 歴史問題の読み解き方』(以上、集英社新書)、『中国共産党と人民解放軍』『第二次世界大戦秘史 独ソ英仏の知られざる暗闘』(以上、朝日新書)、『[増補版]戦前回帰』(朝日文庫)ほか多数。

●内田樹(うちだ・たつる)
1950年、東京生れ。神戸女学院大学名誉教授、芸術文化観光専門職大学客員教授、凱風館館長。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で小林秀雄賞、『日本辺境論』(新潮新書)で新書大賞、著作活動全般に対して伊丹十三賞受賞。近著に『レヴィナスの時間論』、『撤退論』、『武道論』など。共著に『新世界秩序と日本の未来 米中の狭間でどう生きるか』(集英社新書)など。


2022年8月6日土曜日

【20220806:土】+++映画のレビュー考+++

 


■□

〇〇〇〇プライムで映画を継続的に見まくり中。

なので眼精疲労が増してると思う。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品はSF以外も独特の雰囲気でぼくの好みとわかった。

上空からの俯瞰とか使われてる音楽とかとても好きだ。

ぼくはヴィルヌーブ監督を「ブレードランナー2049」で知って驚き、次に見た「メッセージ」で彼のファンになった。プライムで、「静かなる叫び」、「プリズナーズ」、「ボーダーライン」と見たけれど、どれも独特の緊張感があり、その一貫性も好きだ。まだ「デューン、砂の惑星」は見てないのだけどね。

彼以外の監督による映画もたまにとても良いものがあったりして、ぼくの眼精疲労と睡眠不足はこれからもしばらくの間蓄積され続けることだろう。


ところで・・・だ。


映画を見た後に、その映画のレビューを読むと時々嫌な気持ちになることがある。

ぼくは映画の感想は読書の感想と同様に、視聴者や読者がどうとらえようと自由だと思っている。どんな解釈の仕方が正解なんてこともないと思っている。

ところが、このレビューの中には、他人のレビューを暗にけなしたりするものが混在している。自分の知識をひけらかし、マウントをとろうとする人もいる。

それなら、レビューなんて見なければいいということになるのだけど、ぼくの知らない情報が載ってたり、わかりやすく感想がまとめられてる「ぼくにとっては良い」レビューもあったりするのだ。

玉石混交だね。

映画のレビューに限らず、とかくマウントをとろうとする輩が世の中にはけっこう存在する。学歴だったり、知識量だったり、他の学者の本を引用して虎の威を借りたりと自分の方が上だと巧みに上下関係に持ち込もうとする。うんざりする。

そういうぼくも知らずしらず他者に対してマウントをとろうとしてるんじゃないかと自分自身のチェックもしないといけないね。

*最近、写真撮ってないなぁ。ブログの写真に困ってる。今日の写真もちょっと前に来店してくれたお客さんの車の中の写真。レストア前の50㏄バイク。ちなみにこの車は以前ぼくが乗ってたポンコツくん。

2022年8月4日木曜日

【20220804:木】+++わがままな店だよね+++

 


■□
ぼくは最初から自分のお店をわがままなお店にするつもりでいた。
・嫌なことは極力やらない。
 これは文字通り。
 組織の一員として働いていた時は嫌なことも我慢してやったが、すべて自分で決定して自分で責任を負うことになったからには嫌なことはしない。(とは言うものの、つい情に流されることもあったりするんだよね)
・同業者と群れない。
 群れれば必ずそこにはぼくの意に反したこともあり、それを付き合いでやるはめになる。上で述べたことと同じだね。また結局のところ利害関係の群れにすぎない。仲良しグループも集団行動も苦手だし、それなら一匹狼でいい。
・ぼくのお気に入りしかメニューにしない、置かない、展示しない。
 珈琲はもちろんのこと、その他の飲み物もお気に入りしか出さない。店内に置くものもお気に入りのものだけ、展示もうまい下手でなく、ぼく自身の好みや店の雰囲気とある程度合致する作品かどうかで決める。
・お客さんは大切にするけど神様とは思わない。
 これも文字通り。
 来るもの拒まず、去る者追わず・・・これが基本。しかし、来るもの拒む場合だってありうるか。人間だもの。

こんな感じでわがままな店ですね。ごめんなさい。

2022年8月2日火曜日

【20220802:火】+++やる気を待ってちゃいけないよね+++

 


■□

ふとぼくは大人なんだよな・・・と思う。

思う、いや、確認する。

ルッキングだけは紛れもない大人だ。だからドラッグストアでお酒を買っても確認されることもなくレジ打ちがすすんでいく。

だけど、ぼくの内面にある精神は17歳かあるいは14歳のままなのだ。

自分としては17歳を奨励してやまない。

高校2年。

クラス写真で反抗的にそっぽを向いて写ってたあの頃のぼくのままだ。

今日も18歳の大学1年生のお客さんと話してたりすると、自分の年齢の立ち位置がわからなくなってくる。数倍も歳の離れた大人のぼくとして接してるのか、それとも18歳の彼の同級生くらいのつもりなのか、あるいは、ちょっとだけ歳上の兄貴のような感じなのか・・・とね。わからなくなる。すべてがないまぜになった感じだ。

話はいきなり変わる。

やる気が出ないとぼくはよく思う。

最近、めっきり絵を描く気がない。

疲れちゃってるからかもしれないけれど、気力がわかない。

そんなときぼくはいつも成り行きに任せてる。

やる気がでるまで待てばいいと。まだ機が熟してないんだろうと。

でも、そんなことしてたらあっという間に年老いて死んでしまうだろう。

行動が先にあるべきなんだ。

行動することで、物事はきしみながらも動き始め、そして徐々に加速していく。

加速していけばおのずとやる気も出てくるってものだ。

今まで逆の方向を向いてぼくは待ちすぎていたんだ。

これからは、行動を先にするように心がけることにした。

それでもやりたくないときは無理にやることはしないな。

ココロモチが少し変わっただけでも、きっと何か変化あるはず。

ぼくは今日そう思ったんだ。

だから忘れないようにここに記しておく!

8月だ~!