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今日のTwitterにも記したのだけど、ドラマや映画の中で、実に多くの人々が殺されたり死んでいったりする。
刀の一振りで斬り殺されたり、ピストルで撃ち殺されたり、首の骨を折られて死んだり、ナイフで喉を掻き切られたり・・・。
あるいは、悪種ウィルスに感染しカラダ中が爛れて死んだり、天変地異のような巨大台風や地震やツナミ等にのみ込まれて死んだりする。
ぼくはそれらを見るといつも、きっとぼくもその他多勢の一人として最初に死んでいく人なんだろうと思わずにはいられない。
どんな立場であれ、簡単に殺されたりする彼や彼女にだって、その背後にはそれぞれの生活があり、ささやかな人生があり、彼や彼女の幸福を願う友人や恋人や家族もいるはずだ。それぞれがかけがえのない存在であるはずなのに、ぼくらの想像力はすぐに枯渇し、一人一人の個としてではなく総数の一つとして、数として捉えるだけになってしまう。いとも簡単に麻痺してしまうんだよね。
ロシアの爆撃によってウクライナの民間人が亡くなっても、その犠牲者の中に子どもが含まれていようとも、数として捉え、表面的に気の毒だとして過ぎていってしまう。
そうでもしなきゃ、ぼくたち自身もつらくて生きていけないからだとも思う。でもそれはやはり言い訳に過ぎないよね。ほんの少しでも想像力を働かせ、犠牲者の恐怖と無念に思いを馳せ、自分に置き換えて考えることにこだわりたい。
プライムビデオで昨夜見た塚本晋也監督・主演の『野火』がぼくのこんな気分に影響を与えているんだろうね。
生と死は紙一重。運以外の何物でもない。
戦闘で死ぬというより、生き延びるために地面を泥まみれになって這いずり回りながらも、機銃掃射で一方的に無残な肉塊として吹き飛ばされていく兵士たち。まさに犬死そのものだ。人の命の重さの圧倒的な不平等を感じる。
そしてぼくはどうしても犬死していく側でしか自分のことを考えられない。
だからなのか、自分が所属する社会を向かわせたくないのだろう。人に殺されたり、人を殺す非常時にね。
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