2022年1月6日木曜日

【20220106:木】+++あの頃の感性は間違ってなかった+++

 


■□

夕飯を食べてて、ふと思い出した。

なんの脈略もなく。。。たまにあることだけどね。


思い出しのは、ぼくが高校教員でまだ青年の域だった頃の出来事だった。

歳上の同僚から飲み会に誘われて行ったときのことだった。

立場は異なっても、今の組織の運営の仕方に異議を持つ人たちの飲み会だった。

ぼくが好きな人もいたし、そうじゃない人もいた。

ぼくのイメージ的には20人近くその飲み会にいただろうか。

そのこと自体は、つまり、お酒の場ではあるけれど、思想信条が違ってもある特定の問題について連帯的(必ずしも連帯していたわけではないと思うから)であることは当時としては先進的で画期的なことだったかもしれない。

その捉え方は現在のぼくも変わってはいない。

ぼくがその飲み会に次からは出ないと言ったのは、その飲み会の名称が引っかかったからだった。率直に言って、それは嫌悪感を抱かせた。

その飲み会が終わった時、

「ぼくは賢人じゃないから、次回からはもう出ない」と宣言した。


たかが飲み会の名称。

私的な集まりであり、その名称もおふざけのつもりだったかもしれない。

そんなの記号に過ぎない。

そう言う人もいる。

でも、当時のぼくも、今のぼくも、その名称にやはりこだわってしまう。

単なる名称であり記号であってもそこに物事の捉え方の本質が図らずもあらわれることだってあると思うからだ。


『ケンジンカイ』(あえてカタカナで表記しておきます)


自分たちはすべてを俯瞰し、正しい判断ができるのだ・・・と言うような選民意識をぼくはその言葉の中に感じとってしまうからだ。

ぼくは『賢人』なんかじゃない、どちらかと言えば、否、間違いなく『愚人』だからだ。

賢い人は無駄な軋轢を避け、処世術にも長けている。

ぼくはと言ったら、偏屈でまっすぐに突っ走るしかできなかった。

あざとく、こざかしい『賢者』となるより、自分に嘘をつかない、誠実な『愚者』でありたい・・・と思っていた。


30年以上前のことだ。。。


なぜ今日ふと思い出したのかわからないけれど、その飲み会に次回から参加しなかったぼくの感性は間違ってはいなかったなぁ・・・と改めて思ったのだった。

その飲み会はその後もかなり続いたと思う。メンバーの入れ替わりもあっただろう。ぼくは参加してないので詳しいことは全くわからないけれどね。


実を言うと自分のことながら、その時のぼくが誇らしく、ほほえましく思えた。まるで第三者の年配者が若者を見るようにね。

ただそれだけの話でした。

蛇足ながら、付け加えておくとその飲み会の中身や趣旨自体をぼくがとやかく言ってるのではなく、それは上で書いたようにある意味先進的画期的なことだったし、有意義であったと思ってる。

だからもしそれが『グジンカイ』だったら、率先して参加したし、幹事だってやっただろうと思うのだけど、今さら「タラレバ」してもね。




0 件のコメント:

コメントを投稿