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沖潤子さんの「PUNK」という刺繍作品集をぼくは持っている。ぼくのお店に飾ってあったので見た人もいると思う。ぼくは針仕事はほとんどしたことないと言っていい。しかし、彼女の作品集を見たとき、その魅力に一瞬で引き込まれた。きっと錆びたものや朽ちかけたものが好きなぼくに、彼女の作品がシンクロする部分があるからだろう。
そしてぼくは失礼にも彼女はぼくよりもずっと歳上で、きっと白髪のおばあちゃんが一針一針縫い続けた作品なんだろうと思い込んでいた。こんな詫び錆びが表現できる人は歳を重ねた人にしかできないと思い込んでいたのだ。
今回彼女のことをネットで調べてみてぼくは驚いた。沖さんはぼくより歳下だし、ファッショナブルでとてもきれいな人だった。決めつけはおそろしい。反省してます。。。
そして、先日お客さんから沖潤子さんの文章が載った冊子を読ませてもらった。彼女の文章もまたとても素敵なものだった。改めて感性が豊かな人なんだと思った。すべてが腑に落ちた気がした。
その文章が以下のもの。
興味あったら是非。
因みにぼくも大の蜩(ヒグラシ)好き。蜩の鳴き声がどれほどぼくのこころに安らぎと清涼感をあたえてくれることか。蜩の鳴き声をきかなければ生きていけないわけではないけど、虫の鳴き声の中で間違いなく一番好きだな。
*今日の写真は神奈川県立近代美術館で現在開催中の沖潤子さんの「さらけでるもの」の図録。会期中に行けそうもないので、電話して取り寄せたよ。
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窓と地図
私は刺繍をしている。下絵を描かずに縫い目がづれたり布がよれたりを針に任せ、もつれた糸をそのまま縫いつけすすめてゆき、 曼荼羅の如く針目を重ねた形が作品となる。母が亡くなった後にのこされた大量の糸がきっかけではじめた作業だが、これを刺繍といって良いのかじつは未だにわからない。
作業はほぼ一日じゅう家の中でおこなわれている。四十半ばから制作をはじめたので、時間が足りないと云う衝迫のようなものがあり、とにかくできるだけ起きている。生命線が手首まであるしきっと時間はあると思うけれど、手を動かせる時間がどれくらい残されているだろうと思うと今集中しておかなくてはと思ってしまう。
手を止めた時にしばし見やるのは窓辺である。住みはじめて十年になる谷戸の古い家には、観音開きの木枠の窓がついている。 家を探している時、不動産屋のチラシに 「冬に陽があたりません」の但し書きがあって怯んだが、窓の佇まいに惹かれて住むことを決めた。家に籠る私には結界のようでもある、窓の周辺から捉えた夏の風景について少し書いてみたいと思う。
春先のウグイスが成長し、誇らしげなその声が谷戸に響きわたるようになると、そろそろ夏がくるとわかる。
日没から庭の隅でジーッと啼くクビキリギリス(最近までミミズの声だと思っていた)、真夜中のホトトギスの孤高の叫び、そして辺りが青くなる早朝のわずかな時間に一斉に啼きだす蜩。 耳の奥にしみこむような蜩の声は、なつかしい記憶の沼の底に導かれるようで、一年に一度あの合唱を浴びなければ生きていけないと思うほどだ。
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