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昨年、元総理の国葬前からぼくはテレビを見るのをやめた。あの国葬実施(そもそも国葬の決定プロセスもぼくには納得できなかった)がぼくをテレビから遠ざけた大きな要因ではあったけれど、好きじゃない人がテレビやネットで重用されてることもぼくがテレビを見なくなった一因だ。
あまりネガティブなことを書かない方がいいんだろうけど、まぁぼくの極私的つぶやきだと思って聞き流すか、今日のブログはとばしてもらってかまわないからね。
『今だけ、金だけ、自分だけ』思想がマスコミやネットでもってこの国の隅々に浸透し、ぼくらは気づかないうちにそれがスタンダードであるかのように錯覚し、ついには常識と化していく。まるで真綿のプロパガンダだ。
『今だけ』でなく「これから先」、『金だけ』でなく「お金にかえられない豊かさ」を、『自分だけ』でなく「あとの世代、子孫にも」残し伝えていくことが、本来的に人のある姿だとぼくは思うけど、ぼくの好きじゃない人たちはあの多数派の余裕の薄ら笑いで、そんなことを言うぼくを馬鹿にして笑いのめすのだろう。
まやかしの三権分立、まやかしの安全保障、まやかしの復興、まやかしの原発安全神話等々等々等々・・・。
上から下までまやかしだらけだ。
それでも、損得や思惑だけで動く人間ばかりじゃないのも事実。体制に流されず踏ん張ってる人もいる。
だからぼくもわずかな希望であってもそれをゴミ箱に捨てず、今でも諦めきれずに持ち続けているんだよね。
権力や強いものに決してむけない批判は辛辣でもなんでもない。そんな輩たちが葬り去られる時代がいつか来ると思いたい。
ぼくは「人間に対する『尊厳』をその人が持っているかどうか」がカギだと思ってる。
国会での会議中、質問にたってる野党議員の質問を笑いのめしていた元総理と元副総理の二人の顔つきと、自分とは異なる意見に対し同じように笑いのめすコメンテーターたちのそれは全く同じものだとぼくは思う。
それは人に対する『尊厳』のかけらもない顔つきだとぼくは思ってる。
笑いのめしは、社会の上から下まではびこってる。
ぼくらの日常、ちょっとした人の集まり、組織の中にもある。
だからぼく自身に対しても『尊厳』のない笑いのめしを無意識にしてしまっていないか自己チェックを怠ってはいけないと思ってる。
また、ぼくは「愛想笑い」もしないように気を付けているけれど、これも根っこで「笑いのめし」につながっているように感じるからだ。
人に対する尊厳を失えば、名古屋入管であったような非人道的なことが日常的に起こりうるわけだ。『(経済的)成長』ばかりを求める社会でなく『成熟』を求める社会になるのも、同じように人としての『尊厳』がキーワードになるんじゃないだろうか。
*写真はネット上から拝借しました。
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