2022年2月25日金曜日

【20220225:金】+++滅私してはいけないということ+++

 


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ぼくが連合赤軍の一連の事件やオウム真理教事件に関心をもったのは、一言で言えば「彼らの中に自己を見出したから」に他ならなかったからだった。「それはぼくだったかもしれない」と言う思いだ。

どちらかといえば普通の人たちが、偶然の重なりの中、次第に大きな流れに巻き込まれ、気づいた時には後戻りできない状況に陥り、取り返しのつかない犯罪行為をおかしてしまう。

どうして彼や彼女が変わってしまったのか、その原因や理由は何なのか?をぼくなりに知りたかった。

そんなわけで、大学生の頃、ぼくは朝日新聞社に行って連赤関連の記事を全て有料でコピーしてもらって調べたり、関連の本や連合赤軍兵士の手記を読んだりした。

そしてその後オウム事件があった。

ぼくの結論はこうだった。

自分で考えることをやめてはいけない。指導者にすべて任せ、考えることを放棄し、滅私してはいけないということだ。

連赤事件やオウム事件とはもちろん違うけれど、本質的に同じことはぼくらの日常の生活にありはしないか?と振り返ってみる。

例えば、職場で管理職に物申せず、社会的にみたらアウトなことを悪いと思ってもやらざるを得ないと黙認、黙従したり、産地を偽装したり、賞味期限切れの食品を偽ったり・・・そんなニュース例はいくらでもある。そこまでではなくても、同じような事例は多くの人が経験しているのではないかとぼくは思う。

とにかく、判断を人任せにするというのは危険なことだ。マルクスも「すべてを疑ってかかれ」と言ったという。

自分で考え判断するのは責任が生じ、しんどいけれど、人間は「考える葦」だし、それこそが人である意義なのだから、本当は踏ん張りどころなのだ。

と言いながら、人は弱い存在で、誰だって人と争いたくないし、人との軋轢はできるだけ避けてストレスを受けたくないこともすごく理解できる。精神的にタフな人ばかりではない。でも意見を言える雰囲気をつくることには加担できるのではないだろうか。肯くしぐさだけでも言いにくいことをいう人は心強かったりするわけだしね。

ロシアのウクライナ侵攻にロシア国内で反対を表明してる人たちが多数いる。そしてそのことが今ではネットを通じてほぼ同時に世界が知るところとなっている。これは先の大戦中の大本営発表時代の世界とは大きく違う点だ。

「滅私奉公」はやめよう。それが何に対してであっても。

そんなことをまた考えさせてくれたのが昨日放送されたクロ現プラス「50年目の”独白”元連合赤軍兵士の償い」だった。



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