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母は認知症もあって今自分の置かれている状態もわからないでいる。
そうに違いないとぼくは思う。
夕方母を見舞うとすっかり眠りに落ちている。
ベッドの足もとにあるテーブルには手付かずの夕飯がトレーの上に並んでいる。
蓋を開けると流動食とお粥とお茶だ。
大部屋に移って、他の患者さんたちはカーテンの向こうでそれぞれに歯を磨いたり寝るための準備をしているようだ。
ぼくは母に声をかけ、母を眠りから覚ます。
ベッドのコントローラーで上半身を起こす。
眠りから覚めたばかりの母はぼくが誰なのかわからないようだった。
「お母さん、夕食きてるから食べよう。まずお茶飲もうか。お母さん、湯呑みは自分でつかんで飲んでみようか。」
母はゆっくりと湯呑みを口元に持っていき、そうっとお茶を口の中に流し込む。
「あー、おいしい。」と母が言う。そうして二口、三口とお茶をおいしいと言って飲んだ。
「そっか。よかったね。じゃ、今日は具のない茶碗蒸しがあるからまずはそれから食べてみようか。」
寒天のように少し固まった茶碗蒸しをスプーンに掬って母の口元に持っていく。
母は少し口を開け、ぼくはその口の中にスプーンの先端を半分ほど入れる。
母はそれを吸うようにして口の中に収める。
入れ歯を外した母の顔は他人のお婆ちゃんのように見えた。
しばらくくちゃくちゃと口を動かし嚥下する。
「お母さん、上手上手!」
母はまた「おいしいなぁ」と言う。
ぼくからしたらどれもとても美味しそうに見えないけれど、母は病院食に文句を言うどころか
おいしい、おいしいと言って食べるのだ。
今夜もぼくが介助して夕食の4分の3くらいを食べた。
ぼくは急に悲しくなって、涙がこぼれそうになった。
母に本当においしいものを食べさせてあげたい。
もしもぼくが今日来なかったら、母はこの夕食を食べることができたのだろうか。
自分の方から職員に何かをお願いすることはもう母の能力ではできない。
頭皮がどれだけ痒くても、喉がどれだけ乾いたとしても、母はもう声なき者なのだ。
あとは、気遣いのできる誰かが母の様子を見て対処してくれるのを、それはおそらくとてつもなく可能性の低いことだろうけど、その善意をただじっと待つ以外にないのだ。
声なき者は哀れ也。。。
声なき者は哀れ也。。。
本来は、声なき者にこそ、ぼくらの想像力、共感力を発揮するべきだとぼくは強く思う。
帰り際、もう一度母に尋ねてみた。
「お母さん、それじゃもう帰るけど、ぼくが誰かわかる?」
「・・・じゅん・・・」と消え入りそうな声だった。
それが今日の救いだった。