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華美でなく心のこもった良い葬儀だった。
お通夜の時、大勢の弔問者で式場の職員も総出で対応に追われたくらいだった。午後6時から始まったお通夜の焼香には9時を過ぎても来る人があった。義理の弟の人柄、人徳のためだろう。
葬儀は社会の縮図だなぁと改めてぼくは思った。
振り返ってぼくはどうなんだろう?と自問した。
ぼく自身の葬儀の在り方、葬儀ではない別の形、あるいは葬儀的なことそのものをやるのかどうか。
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お通夜のあと、28歳の息子と一緒に33歳の娘の家に泊まることになった。葬儀場から車で10分もかからないところに娘は夫と幼稚園児の子ども2人と暮らしているからだ。新築してからぼくはまだ2度目の訪問だった。
胃腸風邪で体調のすぐれない旦那さんには寝てもらって、ぼくと娘と息子はお酒を呑みながら延々と話し込んだ。
結局朝まで眠らないで話した。
義理の弟、彼らにとっては頼り甲斐ある叔父との思い出のことはもちろん、映画やテレビドラマ、政治のことと話題は多岐にわたった。
3人でこんな風に話すことも、真面目な話の中身も初めてのことだった。娘と息子の考え方、生き方の一旦が垣間見れた気がした。この葬儀がなかったら、こんな機会が果たしてやってきただろうかとぼくは思った。
父親らしいことをほとんど何もしてないぼくだから、偉そうなことは言えない代わりに、対等の友人同士として話したつもりだった。
谷川俊太郎の絵本のことばも紹介した。
『カラダは物質だけど、タマシイはエネルギーなんだ』と言うことばだ。2人とも合点が言ったようだった。
この秋1番の冷え込みで、半袖Tシャツと短パンのぼくは娘のフード付きパーカーを借りて、息子と歩いてコメダでモーニングをした。
実はぼくにとってはこの徹夜の一夜のことが一番の想い出になったのだった。
※写真は娘の子どもと。お通夜の始まる前。ぼくはコーヒーを飲み、彼はしるこサンドをひたすら食べてたな。
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