2022年10月23日日曜日

【20221023:日】+++ぼくのこととして考えてみた+++

 


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父の葬儀の喪主として実際に経験して考えたこと。そしていくつかの葬儀に参列して考えたこと。

自分自身の葬儀についてどうしたいのか、思いつくままに記しておこう。

・ぼくは特定の宗教等を信仰してないので、お坊さんをよんだり、戒名を作ったりはしない。だから、葬儀会社に葬儀一式を委託することはしない。

・ぼくのデスマスクをできるだけ見せたくない。死んだぼくの顔でなく、笑ってる時の記憶の中のぼくで締めくくってほしい。

・偲ぶ会とか行うとしたら、普段着で集ってほしい。葬儀のための制服なんて要らない。気持ちが大切だからだ。香典ももちろん必要ない。小さな会場(部屋)を1日借りれるくらいの金は残しておくつもりだ。手ぶらで来てほしい。想い出話があれば、それが一番嬉しい。珈琲でも飲みながら想い出話ができたらいいなぁ。

・葬儀に代わるものとしての集いに案内を出す人をぼくはあらかじめリストアップしておく。親族であっても付き合いがなければ案内するつもりはない。

・ぼくが死んだら火葬場に直送でいい。墓はもちろん要らない。散骨でいいのだが、それがかなわないなら永年供養をうたってる無宗派の寺でいい。

こんなことを考えてる。初めて文章化してみた。新鮮に感じるから不思議。

これをたたき台としようか。

『カラダは物質だけど、タマシイはエネルギーなんだ』と言う谷川俊太郎の絵本の一節。

命が消えた時、カラダから何かが無くなるとぼくも思う。その人当人であっても、亡骸はもうその人ではなくなってる。

抜け殻というと、ひどいと思う人もいるだろうけれど、葬儀で亡くなった人の顔を見るたびにいつもぼくはそう思う。

ぼくらのカラダは器であることをいつも思い知らされる。器には寿命があり、それが尽きた時物質に戻るんだ。

でも、その人のエネルギーは、ぼくらの記憶の中やその人の居た家や部屋、着てた服、身に付けてたもの、読んでた本、運転してた車や自転車、さまざまなところに残っていて、彼や彼女の気配をぼくらは感じる。そうしたエネルギーも少しずつ消えては行くのだけど。

だからぼくはエネルギーの方をきっとより大切に思うのだろう。

人それぞれ死生観は異なって当たり前。ほくの考えを他の人に押し付けるつもりはない。でもぼく自身のことについては、ぼくのやりたいようにやらせてもらいたいんだよね。

まとまりないけれど、今日はここまでにするね。



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