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先日、その時たまたま居合わせたお客さん二人とぼくとで話してたときのことだった。
WBCの話題になった時、一方のお客さんが「ぼくは野球は好きじゃないんでわからないです。」ときっぱりおっしゃった。
ぼくはそのキッパリ感がとても良いなぁと思った。愛想笑いと同じで本当は興味なくてもその場の空気を読んで話を合わせるのが大人対応で処世術とする国。なかなか言えそうで言えないものなのだ。
テレビを見ないようになってから尚さらなのか、ぼくはオリンピック同様WBCにも全く興味がない。興味がないからその情報を入手しようともしない。だから話題になってることも何もしらない。浦島太郎状態は何年もその場を離れていたことから起こる情報欠損状態だとしたら、ぼくの現状は自分にとって興味ないものを完全にオミットした世捨人状態の変種なのかもしれない。
また、どの競技種目にしろ、選手のパフォーマンスを見て、生きる勇気をもらったり、励まされたという記憶もぼくには全くなかった。
まさに人それぞれというやつだ。
逆にぼくとは異なり例えばWBCに興味があり楽しめる人は存分に楽しめばいい。
ぼくがやだなぁと感じるのは、誰もがオリンピックやWBCやサッカーワールドカップに興味があって当たり前という雰囲気だ。
ややもすると個人的な無関心さの表明は、その場の盛り上がった雰囲気に水を差すものだとKY視されたり、変わり者だと嘲笑の対象にされたりすることだ。
これも同調圧力だ。
メディアはブームの増幅機であり拡声器だ。試しにメディアから1ヶ月でも離れてみると、ぼくらはいかに自分達の興味関心が最大公約数的に搔き立てられているかわかるのではないだろうか。
情報は受動的に得るものでなく、自ら能動的、意識的、選択的に得るものだとぼくは思ってる。
誰しもが興味ないことははっきり興味ないと言える人間関係や社会になるといいんだけどね。
とりあえず自分の周りから変えていこうか。
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