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先日観た昔のドラマ『仁』の中のやりとりで最も印象深く、納得したものがあった。
それは南方仁がペニシリン量産のため、パトロンとして富裕な商人に金銭面の援助を請うた際のやりとりの中にあった。
その商人が支援を惜しまなかった生前の緒方洪庵は器の大きな人物だったからであって、器の大きさの定まっていない得体のしれない南方仁に支援はできないと彼はきっぱり断った。
のちに彼が支援を約束したのは、南方仁の人としての器の大きさではなく、人々を引き寄せる飾り気のない器の美しさ故だった。
ぼくも人としての器の大きな人は憧れる。言い換えれば、懐の深い人だ。自分軸がしっかりしていてどんな時にもブレたりしない。
ひるがえって、ぼくのような器の大きくない普通の人間にとって何が最も大切なのかといえば、器を実際よりも大きく見せないことだと思う。
SNSでの発信内容を見るまでもなく、個人においても様々な業種においても、世の中の少なくない人たちは自分の器をことさら大きく見せることに躍起になってると思えてならない。
ぼくにはどうしてそこまで自分を粉飾し大きく見せたいのか理解できない。
他人にどう見られるか、他人軸を基準としたら決して満足など得られるはずもないのに。
ぼくはそのような器を現実より大きく見せようとする人や商売を信用しないし、貴重な時間の無駄使いとなるから関わらない。
器はおおきくなくともありのままの自分で接したいし、ありのままの自分で接してくれる、そんな人間関係の中にぼくは居たいと切に思っている。
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