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2024年の営業スタート。
今日は予想外にお客さんが来てくれて、かと言って、てんてこ舞いになるほどではなくてありがたいことだった。
それに画家のKさんが桑名から来店してくれて、あれこれ話せたのもよかった。
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ところで、元旦の能登半島地震以来ずっと頭から離れなくて考え続けていることがある。
それは一日のブログにも記したように、NHKのアナウンサーが津波の到来を伝えるために絶叫調で放送していたことだ。
あのあと、Twitterで散見したのは、2011年の東日本大震災時にもっとアナウンサーが必死で伝えるべきだったという批判が少なからずNHKに寄せられていたことと、今回その批判・教訓がやっと活かされたと言うツイートだった。
また知人からもメールがあり、NHKニュースが緊迫感ないと田舎はまず避難したり逃げたりしないと言う事情を説明してくれた。
ぼくは何に引っかかっているのかその後も気になって、実家の片付け作業しながらもついつい考えてしまっていた。
結論から言うと、災害が起こったときに冷静に報道するのでなく、緊張感を出すために絶叫調で報道する、あるいは報道するべきだ・・・と言うのにぼくは同意できないし、同意しない。
もっと絶叫して伝えてくれたら災害に巻き込まれなくて済んだのに・・・と報道側にその責任を負わせるのだろうか?
情報を得て、どう判断するか、それは個人の責任で行うものだとぼくは思う。
その判断を行うための情報を隠蔽したり、誤情報を伝達した時とはわけが違うとぼくは思う。
ふとぼくは高校教諭時代、生徒指導部の一員として自転車通学生徒のノーヘル指導をさせられた時のことを思い出した。法律で自転車乗車時ヘルメット着用が努力目標にすらなっていない頃のことだ。校則によりヘルメット着用を義務化し、着用していない生徒を見つけては、生徒手帳を取り上げペナルティーを課すと言うものだった。
学校近くでヘルメットをかぶる生徒がまだ大丈夫だろうと思う辺りにぼくら生徒指導部担当教諭は隠れ、ノーヘル生徒を現行犯摘発するのだ。なんでこんな馬鹿馬鹿しい取り締まりを勤務時間前の早朝からしないといけないのか納得いかず、先輩教諭にたづねたりもした。
その時、先輩教諭が言った言葉をぼくは今もはっきり覚えてる。
『自分のクラスの生徒が死んだら嫌だろう。』だった。
その当時、若造のぼくは咄嗟に反論できなかった。
今思うに、ヘルメット指導は学校という組織を守るためのアリバイみたいなものだったのだろう。
あご紐をしめてなくてもちょこんと被ってさえいたらよかったわけで、実際に事故にあったらそのようなヘルメット着用は無意味だろう。
ヘルメットをかぶっていても急なくだり坂を猛スピードでくだって信号機の無い交差点に突っ込んだら自殺行為以外のなにものでもない。ぼくら教員がやるべきことは、自転車通学に伴う危険性や危険行為を事あるごとに朝礼等で注意喚起することだと思う。耳にタコができるほど言うべきだったろう。100歩譲って、ヘルメットならどんなヘルメットでも可(自転車競技用の高価なものでも)というならともかく、当時そんな度量を学校は持ち合わせていなかったからね。
話を元に戻す。
繰り返すけれど、ぼくはやはりやり過ぎだと思う。
個人的には民放各局までが絶叫調にならないでほしい。NHKが絶叫調でいくなら民放ニュースをチェックするつもりだからだ。
そういうのってどんどんエスカレートしていく。
悪いことじゃないと言う意識も働くだろうしね。
そして批判されたくないし、組織を守らなければと言う気持ちもね。
これも関係ないことだけど、東日本大震災の時の『絆』ブームにも違和感があったことを思い出した。
なんだか非日常時になると全体がわ〜っと右へならえ〜!みたいになることが本当に恐ろしい。日常時にはとんでもない異常事態でも平然としているのにね。
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