2026年3月9日月曜日

【20260309:月】+++ロスタイムに生き急ぐ+++

 

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自宅マンション。新築購入してからすでに40年近く経っている。そのため、あちこちガタが来てる。

特にベランダからの漏水問題。昨年は保険で漏水部分の床と畳、壁紙を無償交換してもらった。それでも根本的に漏水問題が解決したわけではない。これは構造的な問題だからだ。

売却も考えたけれど、二束三文の値段しかつかないようなら、自分のカラダ同様、問題箇所とうまく付き合って行く、そんな選択の方が良さそうだ。

売却を思いとどまった要因の1つに、眺めの良さがあった。3LDKのうち、リビングと2部屋が南に面しているので陽の光を存分に楽しむことができる。幸い視線被曝するような高層の建物も近くになく、南方にある里山緑地を眺めることができる。春になれば里山との中間点にある河川の遊歩道に満開となる桜を遠くにうっすら見ることもできる。

親子世帯では手狭に感じられた専有面積も今ではちょうど良いサイズ感。部屋の壁を取り払い1LDKにリノベしたら快適さも増すかもしれない・・・。

そんなことを妄想してるうちにも時間はどんどん過ぎて行く。

ぼくの人生のロスタイムだって終了のホイッスルがいつ吹かれてもおかしくない。

二十歳前、ぼくは若くして死ぬんじゃないかと漠然とした不安にせき立てられるように生き急いでいた。そして還暦後の今、明らかに死が現実のものとなってから、ぼくは再び生き急いでいる感じだ。

「またね」「いつかまたね」「また今度ね」「もう少ししたらね」はやめないと。

やりたいこと、そして会っておきたい人との予定を後回しにするのは卒業しないと。

それが今のぼくのココロ持ちです。

 

 

 

2026年3月8日日曜日

【20260308:日】+++めんどくさがり屋+++

 

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「めんどくさがり屋」って方言なのかなぁ?

ま、それはさておき、ぼくはかなりのめんどくさがり屋なのです。

詰めが甘いとも言うし、それこそ方言でいう「だだくさ」なのです。

因みに「だだくさ」とは主に愛知県や三重県などで使われる方言で物を「粗末に扱う」「雑に扱う」「ぞんざいに扱う」と言うような意味なのです。

物作りを生業にしている人ならばあってはならないことですね。

 

少し話は飛ぶのですが、ぼくの足は左と右で1cmの長さの差があるし、とても幅広でさらにはとんでもなく甲高なのです。そんなぼくの足型に合う靴は今の所、HOKAという靴メーカー(フランスだったかな?)の中の特定なタイプのものしかありませんでした。現在お店で履いているのがそのシューズです。

ところが、今回試着(?)してみてKEENのトレッキングシューズも履けることがわかり、すぐさま購入することにしました。靴と食パンは少し値がはっても毎日のことなので頑張りたいとぼくは思っているのです。 


話はまた戻ります。

そのトレッキングシューズにノンシリコン性の撥水・防水・防汚のスプレーをするのですが、めんどくさがり屋のぼくは靴ひもを靴からはずしたり、足首部を新聞紙等で詰めてスプレーが靴内部に入ることを防ぐことをせず、小手先の噴霧方向の調整だけでやってしまうのです。

スプレーしないよりはマシだから、いいか・・・って感じです。つまりは「だだくさ」なんですよね。

この性格?性質は半世紀以上かけてつちかってしまったものなので、なかなか矯正することができません。ぼくは箸の持ち方も自己流でとても変だし、人によっては恥ずかしくて人前では見せられない程度だと思います。何度か練習したこともありましたが、食事自体が美味しくなくなってしまったのでやめました。ダメならフォークで刺したり、スプーンですくって食べればいいや!って思ったからです。

そんなぼくですが、めんどくさがり屋でいるよりは、丁寧に物事を扱う方がいいのはよくわかっているので、気持ちをコントロールしてときおり丁寧にやったりもするのですが・・・・。

何事も自分のペースをくずさず丁寧に扱うことのできる人に本当に憧れます。

トホホ・・・

そんなぼくの一面でした。

2026年3月7日土曜日

【20260307:土】+++勧善懲悪とそこなわれていくもの+++


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最近顕著なぼくの感受傾向。

一言で表現するなら、勧善懲悪を希求しているのだな。

ドラマでも映画でも悪事や悪意に怯まず、筋を通し理不尽を正し、正義を貫く。

そして最終的に悪を懲らしめ、あるいは過ちを正す。

ぼくはそれにココロを揺さぶられ、涙し、溜飲を下げる。

それは現実世界がその真逆にあるからだと思う。

悪事を働いてもシラを切り通す。

平気で嘘を言い、決して謝ることをしない。

多数派は数の力で少数派を圧殺し、好き勝手をしてはばからない。

『今だけ、金だけ、自分だけ』の価値観がまかり通る。

それが国のトップからだから、損得の価値基準でなく、損得を度外視した純粋な何かが

大きくそこなわれ始めている。

新自由主義経済などまさにミハエル・エンデのモモの中の効率主義を思い出させる。

一体どこまで荒んで行くのか、この崩壊を食い止める手立てはないのだろうか。

答えを得られないまま、ぼくは再びフィクションの中で正義の貫徹に涙するしかないのだろうか。